金太一少年は、なぜ殺されたのか/始まりのウリハッキョ編vol.44 4・24教育闘争(上)
1945年の祖国解放後、在日朝鮮人はすさまじい勢いで朝鮮語を教える国語講習所を日本各地に建て、子どもたちへの民族教育を施していった。しかし、米占領軍と日本政府は48年1月に「朝鮮人学校閉鎖令」を出して朝鮮学校への大弾圧を加え、大阪では16歳の少年が警官に銃殺される惨劇が起きた。
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1945年の祖国解放後、在日朝鮮人はすさまじい勢いで朝鮮語を教える国語講習所を日本各地に建て、子どもたちへの民族教育を施していった。しかし、米占領軍と日本政府は48年1月に「朝鮮人学校閉鎖令」を出して朝鮮学校への大弾圧を加え、大阪では16歳の少年が警官に銃殺される惨劇が起きた。
14歳で日本軍の性奴隷被害を受けながらも日本政府の公式謝罪と補償を求めて闘ってきた韓国在住の金福童さん(92)が1月28日、闘病の末、ソウル市内で逝去した。ルワンダ、コンゴなどで性暴力を受ける被害者たちを支援するナビ基金を立ち上げ、日本に暮らす朝鮮学校の子どもたちへの支援を率先してきた金福童さんは、朝鮮半島や日本、世界中で人権活動家として尊敬を集めていた。朝鮮学校にも度々足を運び、大阪無償化裁判控訴審で敗訴判決が下った翌日の9月28日に大阪朝鮮高級学校と城北朝鮮初級学校を訪れ、児童生徒と教職員たちを激励した。
「暴力悪いんは分かってる。でもうちのムラで奈良みたいなんが起きたら、懲役行く覚悟だけはしといてくれ」。ヘイトデモに対峙する度に私は、3年前に死去したある部落解放運動のリーダーが、ごく近しい仲間にだけ告げたこの一言を想起する。
「慰安婦合意」や少女像、そして徴用工判決を巡る態度、さらには無償化裁判――。不実の底が抜けきったいま、「日本」を問い続けた先人を思い返している。宋斗会(1915年生)である。
前回、朝鮮学校で初めて作られた国語(朝鮮語)教科書について紹介した。本号ではそれに続き、1940年代後半から総聯結成以降の編纂過程をまとめる。
1945年の祖国解放後まもなく、日本各地で在日朝鮮人による国語講習所が建てられた。トンネの同胞、子どもたちを集め、急ごしらえの教員が手作りの教材で朝鮮語を教える…。その後、教材づくりは組織的・体系的に発展し、今日まで変遷を経てきた。さまざまな科目の中から、まずは「国語(朝鮮語)」教科書の歴史を振り返ってみたい。
僧侶の読経が響くなか、他の遺族とともに引いた紐で慰霊碑を覆う布が取り払われると、彼女は堪えきれずに両手で顔を覆った。済州島出身で、現在は大阪市に暮らす在日一世、李福淑さん(1936年生まれ)である。2018年11月18日、天王寺区の統国寺で、「済州四・三犠牲者慰霊碑」の除幕式があった。
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