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【特集】もうひとつの私のふるさと

toku201608

在日朝鮮人同士が初めて会うと、「고향은 어데요?(故郷はどこだ?)」という会話がよく交わされる。慶尚道や済州島など、特に1世の場合、生まれ育った朝鮮のコヒャン(故郷)への思いは強い。しかし、様々な理由により、生まれ育った場所や生活の過程で、本来のコヒャンとはまた別の場所を「コヒャン」と思う人たちも多い。「自分のコヒャン」はどこなのか? 様々な人々に「心のコヒャン」「もう一つのコヒャン」を語ってもらい、自分自身のアイデンティティを探ってもらった。

 

◆サトゥリ、ぬくもり、笑顔…
1世の魂が宿る場所で

キム・スネ(在日朝鮮人2世、名古屋市在住)

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介護職員が話す朝鮮語の標準語を「マチガットル!」とサトゥリ(方言)に「正して」くれたハンメたち(筆者提供)

物心ついたころから、1世のアボジは私に繰り返し言っていた。
「スーネのアボジのコヒャン(고향:故郷)は慶尚南道南海だ、オモニは居昌だ」
朝鮮学校に通わせてもらったこともあり、私は今まで生まれた東京を故郷と言ったことがない。
亡きオモニは「苦労ばかりしたところだ、誰もいない」とコヒャンに帰りたいと言わなかった。しかし、同世代のスリョンオモニは、終末期、「엄마 엄마 어데 갔노 날 두고 어데 갔노(オンマ、オンマ どこ行った! あたしを置いて どこいった)」と哀しげに口ずさんでいた。認知症だったアボジは、窓の外を指差して「ナメ(南海)が見える」と言っていた。帰れない現実を受け入れていた1世の魂たちは、自分のオモニたちと会い、分断された故郷を自由に飛び交っているのだろう。

◆コリアンであり、地球市民でもある

鄭己烈さん(中国・清華大学招聘教授、63歳)

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生まれは韓国・江原道の原州です。生後7ヵ月目からソウルに移りました。1980年、27歳の時に奨学生として米国の大学へ留学。そこからほぼずっと海外暮らしです。63年の人生のうち、36年。長いですね。
四半世紀におよぶ米国での生活を経て、2006年から中国に拠点を移しました。縁があって中国社会科学院の招聘教授のポストを得て、08年からは北京大学と並ぶ名門・清華大学の招聘教授を務めています。同大でコリアンが社会科学分野の教授になったのは私のケースが初めてだそうです。
世界中から集まった学生たちを前に、私は次のように自己紹介をしています。
I am a Korean, at the same time, I am a grobal citizen.(私はコリアンであり、地球市民です)

◆ウリハッキョは私たちの故郷

楊琴女さん(西播朝鮮初中級学校講師、39歳)

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우리 학교는 우리 고향이다(ウリハッキョは私たちの故郷)》―この歌の作曲者との出会いは、2002年の金剛山でした。6・15共同宣言以降に開催された、分断史上初となる北南海外青年学生統一大会。私は青年同盟代表団として参加しました。
祖国統一や民主化のために活動する南の人々と初めて出会い、短い3日間のうちに心を通わせながら、それぞれの境遇や信条そして祖国統一への想いなどを熱く語り合いました。
交流会でたまたま近くに居合わせた女性と意気投合した私は、韓国の民衆のために歌いたたかう歌謡団体《우리나라》の存在を知り、深い感銘を受けました。メンバーの一人であるかのじょも在日朝鮮人の民族教育(後にかれらも愛情を込めて呼ぶようになったウリハッキョ)について、強い関心を示して目を輝かせました。

◆民族史の中に自分を位置づけてくれた原点

洪滉仁さん(在日本朝鮮留学生同盟中央本部副委員長、29歳)

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私は在日朝鮮人3世で、今でこそ民族団体で専従をしていますが、元々は同胞社会とは疎遠なところにいました。大阪でずっと日本の学校教育を受け、小さい時に日本国籍を取得し、同胞とのつながりと言えば家族、親せきぐらいでした。自分が在日であることも周りに打ち明けなかったので、京都の大学に進学したときには、もはや自分自身ですら朝鮮人であることを忘れてしまうほどでした。そんな時に在日本朝鮮留学生同盟(留学同)との出会いがありました。

◆大切な人がいる、祖国の地

李華仙さん(金剛山歌劇団舞踊手、28歳)

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祖国・朝鮮で指導を受けた恩師のペク・ウンスさん(写真左)とともに

舞踊に触れたのは初級部の時です。初級部5年生と、中級部3年生の時には祖国・朝鮮で行われたソルマジ(新年の公演)にも参加しました。その頃は、「これが教科書で見てきた祖国か…」と、どこか他の地に降り立ったような気分でした。「訪問」としか思っていなかったんだと思います。
舞踊に対しても祖国に対しても、考えというか、感覚のようなものが変わったのが高級部の頃です。まず舞踊を踊るうえで、徐々に自分の意志がしっかりしてきましたし、そんな中での平壌での3回に渡る教育通信制度は特別でした。このとき初めて、祖国に師匠が出来ました。朝、昼、晩、時間を問わず踊りつづけていました。

 

◆遥かなる父の墓標を探して 68年ぶりに訪れた故郷・朝鮮

福島隆(81歳、熊本県在住)

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咸鏡南道・興南のトウモロコシ畑で、父が眠る咸興の方角を向いて慰霊を行う(2013年6月21日、写真左端から筆者、妻の利さん、妹の八恵子さん。筆者提供)

日本の植民地支配下にあった朝鮮半島の北半部で暮らし、第2次世界大戦での敗戦を前後した時期に亡くなった日本人は約3万3000人にのぼる。現在も2万柱を超える遺骨が現地に眠っているが、朝・日間に国交がないため遺骨収集は進んでいない。2013年と14年、「北朝鮮地域に残された日本人遺骨の収容と墓参を求める遺族の連絡会」(北遺族連絡会)による墓参訪朝に参加した福島隆さん(81)に生まれ故郷・朝鮮の思い出について寄稿してもらった。

◆日本と朝鮮半島を結ぶ故郷 作家・森崎和江と画家・李仲燮、妻方子

日本の植民地支配時、朝鮮半島には多くの日本人が暮らしていた。日本人と結ばれた朝鮮人も少なくない。二つの土地を行き来しながら、見えた故郷の姿とは…。

朝鮮は私の原郷…作家・森崎和江の朝鮮観

作家の森崎和江は、1927年、日本の統治下にあった慶尚北道大邱市に生まれ、17歳まで朝鮮で育った。森崎は、「私の原型は朝鮮によってつくられた…。朝鮮は原郷だ」と語る。
森崎が「自分の存在の根源にかかわる」とする、朝鮮での日々を一冊に収めたのが1984年に出版された「慶州は母の叫び声~私の原郷」(新潮社)だ。
「『朝鮮には何もない』、そう感受することが不可能な輝きがわたしの感性につきまとっている。そして、わたしをとりまいていた朝鮮人のあの人この人の心と肉体にも、その輝きがあり、たとえば夕方の小道ですれちがう時に同じ情感を交わし合っていることを、幼い日の私は知っていた…」


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