始まりのウリハッキョ編 生活の“中”にあったウリハッキョ vol.46 「金平団地」と朝鮮学校
1960年代、福岡には行政による区画整理のため、生活していた場所から立ち退きを強要された在日朝鮮人たちがいた。代わりの住まいとして、たくさんの長屋で形成された「金平団地」(福岡市東区、現正式名称は浜松住宅)には多くの同胞が集まって暮らした。団地の敷地内には公園や銭湯のほか、市内から移された福岡朝鮮初級学校も存在した。
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1960年代、福岡には行政による区画整理のため、生活していた場所から立ち退きを強要された在日朝鮮人たちがいた。代わりの住まいとして、たくさんの長屋で形成された「金平団地」(福岡市東区、現正式名称は浜松住宅)には多くの同胞が集まって暮らした。団地の敷地内には公園や銭湯のほか、市内から移された福岡朝鮮初級学校も存在した。
朝鮮学校閉鎖を命じた「1・24通牒」は、朝鮮語による自主的な教育を認めないという日本政府のあからさまな弾圧であり、戦前に続く植民地主義の継続を意味した。通牒に反対する4・24教育闘争には、100万3000人が参加し、「民族教育=子どもたちの未来」を守る精神と連帯を生んだ。同胞たちは学校の再建に立ちあがる。
1945年の祖国解放後、在日朝鮮人はすさまじい勢いで朝鮮語を教える国語講習所を日本各地に建て、子どもたちへの民族教育を施していった。しかし、米占領軍と日本政府は48年1月に「朝鮮人学校閉鎖令」を出して朝鮮学校への大弾圧を加え、大阪では16歳の少年が警官に銃殺される惨劇が起きた。
前回、朝鮮学校で初めて作られた国語(朝鮮語)教科書について紹介した。本号ではそれに続き、1940年代後半から総聯結成以降の編纂過程をまとめる。
1945年の祖国解放後まもなく、日本各地で在日朝鮮人による国語講習所が建てられた。トンネの同胞、子どもたちを集め、急ごしらえの教員が手作りの教材で朝鮮語を教える…。その後、教材づくりは組織的・体系的に発展し、今日まで変遷を経てきた。さまざまな科目の中から、まずは「国語(朝鮮語)」教科書の歴史を振り返ってみたい。
「在日朝鮮初級学校中央サッカー大会」が今年で40回目を迎えた。「コマチュック(꼬마축구)」(ちびっこサッカー)の愛称で親しまれる、歴史ある大会で唯一破られていない記録がある。埼玉朝鮮初中級学校の大会3連覇だ。第7回(1985年)から9回(87年)大会にかけて3連覇を果たした埼玉初級にスポットを当てた。
朝鮮学校の子どもたちに今も民族音楽の息吹を伝え続ける民族楽器。その歴史は1966年5月、東京朝鮮第1初中級学校(東京都荒川区)に祖国・朝鮮民主主義人民共和国から民族楽器が送られてきたことから始まる。
朝鮮学校の舞踊教育において、バイブルといえるのが基本動作だ。朝鮮舞踊の礎を築いた崔承喜が朝鮮民主主義人民共和国で作った「朝鮮民族舞踊基本」(1958、朝鮮芸術出版社)が海を越えて、日本に伝わったのは1960年代のことだった。
朝鮮学校には多くの学校に朝鮮舞踊のサークルがあり、民族の心をはぐくむ大切な空間となっている。今でこそ舞踊を教える人は増えたが、草創期には一握りの1世だけ。その1世から、むさぼるように民族の踊りを習い、2世、3世たちに伝えた人たちがいた。
民族教育史上初めて、朝鮮学校の生徒たちが南の故郷の地で芸術公演を行ったのは15年前の2002年9月のことだった。在日朝鮮学生少年芸術団(団長=具大石・東京朝鮮中高級学校校長、総勢90人)は、9月4日にソウル、6日には全州で公演を成功させ、合計4500人の市民が朝鮮学校生との出会いを果たした。
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