“一刻を争う”支援の訴え――在朝被爆者問題の解決に向けて
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1997年に広島市を訪れた朝鮮の被爆者代表団。右から3番目が故・李実根さん。在朝被爆者の存在が日本で広く知られるようになったのは、広島県朝鮮人被爆者協議会の前会長である李さんによるところが大きい(金子哲夫さん提供)
被爆者はどこにいても被爆者
米国の原爆によって、広島と長崎にいた約7万人の朝鮮人が被爆し、そのうち約4万人が死亡した。被爆者の約10%は朝鮮人だ。朝鮮原爆被害者協会が2008年に公表した実態調査(調査は07年末時点)によると、朝鮮半島北部に帰国したのは、1911人とされている。
同協会の2018年調査によると、前回調査時の生存者382人中111人を再調査した結果、生存者は60人だった。
「被爆者の実態は非常に深刻だ」と語るのは、原水爆禁止広島県協議会代表委員の金子哲夫さん(77)。2018年に訪朝した金子さんは、面談した朴文淑副会長が被爆2世の問題、子どもたちの健康のことを強く訴えていたことが脳裏に焼きついていると話す。金子さんの分析では、在朝被爆者の死亡率は厚生労働省が把握する被爆者手帳取得者より10%近く高い。

2008年、在朝鮮被爆者支援連絡会の代表団が訪朝し、医療現場を参観した(朝鮮新報提供)
2008年に日本の被爆者援護法が改正され、在外被爆者は現地の大使館や領事館で被爆者健康手帳の申請ができるようになった。朝鮮の場合、国交がないため国内に日本領事館もなく、現地での申請が不可能だ。また、日本による独自制裁によって訪日することは物理的に困難だ。援護法に国籍要件はないが、在朝被爆者は現実的に援護法の恩恵を受けることができず、日本政府は救済措置を講じていない。
朝鮮原爆被害者協会は、「原爆被害者に対する日本当局の謝罪と賠償問題は、日本の過去清算問題の一環として朝・日政府間で必ず解決されるべき問題だが、今日被害の生存者とその子孫に対する医療支援は一刻を争う焦眉の問題」(18年の調査報告書)だと訴えている。
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2歳で内部被曝、心身の苦痛いまも
在朝被爆者 カン・ジョンヒさん(81、平壌市牡丹峰区域在住)
私の父は17歳のときに北海道の鉱山へ、母は16歳で大阪の紡織工場に、それぞれ徴用で連行された。父は4度目の脱走がようやく成功し、逃れた先の大阪で母と出会い家庭を築いた。
その後、アジア太平洋戦争が勃発し、毎日のように爆弾が降り注ぐ中、私たち家族は大阪から京都、神戸、広島を転々とした。しかし安全な場所などなく、山間部に疎開した。これにより広島への原爆投下から逃れることができた。原爆投下の4日後、母は自宅の庭に埋めておいた布団や食料を取りに、2歳だった私を背負って広島市中心部に戻った。母の背中で私は、灰混じりの空気を鼻と口から吸い込んだのだ。
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以上が記事の抜粋です。全文は本誌2025年10月号をご覧ください。