元記者たちが語る “現場”とこれから/朝鮮新報 創刊80年
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祝賀宴に参加した朝鮮新報社の歴代OB・OGたち
文:韓賢珠、李相英、康哲誠・写真:朝鮮新報
日本の植民地支配から解放された在日朝鮮人たちが、自らの手でつくりあげた新聞―。在日本朝鮮人総聯合会(総聯)の機関紙・朝鮮新報が今年10月、創刊から80年を迎えた。10月24日には、創刊80周年を記念する祝賀宴が東京都内で開かれた。現職社員、元社員を含め、各界から約200人が参加し80年の節目を祝った。
1945年10月10日、在日同胞の声を伝えるメディアとして産声を上げた朝鮮新報(当時は民衆新聞)。多くの記者たちが激動の時代と共に歩み、祖国と同胞社会の姿を記録してきた。かつて新聞づくりに携わった人々は、それぞれの時代をどう見つめ、何を伝えようとしてきたのか。祝賀宴に出席した元記者、社員たちからは、それぞれが体験した現場の息づかいが語られた。
新報と歩んだ日々
李東埼さん(93)は、1961年に朝鮮新報社に入社し、同社が発行していた日本語版新聞・朝鮮時報の記者、副編集長を経て89年まで同編集長を務めた。新報社での日々を「私の青春そのもの」と振り返る李さん。それは、日本の植民地統治下の朝鮮で生まれ、旧制中学1年の頃に祖国解放を迎えたかれにとって当然のことだったのかもしれない。「民族教育を受けたことがなかった自分が、朝鮮語を学び、金日成主席を知り、朝鮮人としての魂を取り戻したのは朝鮮新報社での日々だった」。李さんにとって職場は「我が家のような場所であり、学校でもあった」。
また、30年以上にわたり輪転機で新聞を刷り続けた金一秀さん(68)は、「よく働き、よく遊んだ。それほど仲がよく切磋琢磨できる同僚たちだった」と、苦楽を分かち合った仲間たちとの絆を懐かしむ。そして、「今の時代、改めて思うのは紙の新聞の価値。紙媒体としての朝鮮新報が残りつづけてほしい」と古巣への期待を口にした。
また、30年以上にわたり輪転機で新聞を刷り続けた金一秀さん(68)は、「よく働き、よく遊んだ。それほど仲がよく切磋琢磨できる同僚たちだった」と、苦楽を分かち合った仲間たちとの絆を懐かしむ。そして、「今の時代、改めて思うのは紙の新聞の価値。紙媒体としての朝鮮新報が残りつづけてほしい」と古巣への期待を口にした。

朝鮮新報の紙面をひろげ談笑する参加者たち
繋ぐ媒体として
他方で朝鮮新報は、祖国と在日同胞社会を「繫ぐ」媒体としての役割を担ってきた。
金光錫さん(72)は、平壌支局が開設(1988年)され、朝鮮新報の記者が現地に常駐するようになる約1年前に、記者として祖国を訪問した。同じく記者だった妻の朴日粉さん(元編集局副局長)と、6歳の息子と2歳の娘を連れた4人での訪問だった。「今後、記者が家族同伴で赴任する場合も見越した試験的な訪問だったと記憶している」。当時たくさんの地方取材に赴く貴重な体験をした。夫婦2人とも取材に出ている間は滞在先の大同江旅館のスタッフたちが子どもたちの面倒をみてくれた。それが「何よりも有難かった」。

平壌支局開設前の時期、朝鮮で地方の建設場をめぐった金さんの記事
現在は日本の行政で働きながら「私たち在日同胞コミュニティがどれだけすばらしいか」をしみじみ感じる日々を送っているという金さん。「窓口で外国ルーツの人たちを相手にするが、かれらは相談するところがない。私たちには組織があって、同胞たちがつながっている。この貴重なつながりを絶やさぬよう、これからも新報が同胞たちの知らせをたくさん取材し載せてほしい」と期待を込めた。
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以上が記事の抜粋です。全文は本誌2025年12月号をご覧ください。
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