言語 ~沖縄取材記④
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「あなたは朝鮮語を話せますか?…あぁよかった。うれしい」
これは沖縄滞在期間で、最も印象に残っている言葉の一つだ。
唐突な問いだった。
私が朝鮮語を話せることに、80歳の方がなぜ「よかった。うれしい」と能動的な感情を表したのかよくわからなかった。
彼はそれきり、そのことには触れずに、取材に応じてくれていたのだが、私は取材中もずっと、頭の片隅で「よかった。うれしい」の意味を探っていた。
ひと通り取材が終わった頃、再び彼は唐突に話し始めた。
「私があなたに朝鮮語を話せるかと聞いたのはね、私がウチナーグチを話せないからなんです。聞くことはできるけど、話せない。あなたは在日朝鮮人4世だというのに、朝鮮語を失わずに話すことができる。そのことがうれしいんです」
複雑な気持ちだった。「私の」朝鮮語は、私が目的意識的に習得したものではない。ましてや私個人の努力によるものなんかでもない。
たとえ二つに分断されていても「祖国」と呼べる場所があり、1世たちが築いてくれた在日同胞社会があって、民族教育があるからこそ、彼の言葉を借りれば、「失わずに」朝鮮語を話すことができるのだ。
だから彼の言葉は、私ではなく祖父や祖母、両親―1世や2世、さらには植民地支配に抗って言語を守った先代にこそ向けられるべきはずである。
もう一つ、彼の言葉を素直に喜べなかったわけは、朝鮮学校に通い朝鮮語を話せる在日朝鮮人は一握りに過ぎないという直視すべき現実があるからだ。
もう一つ、彼の言葉を素直に喜べなかったわけは、朝鮮学校に通い朝鮮語を話せる在日朝鮮人は一握りに過ぎないという直視すべき現実があるからだ。
後日、もう一度彼に会う機会があったのだが、彼は再会をとても喜んでくれたようすで、すぐに切り出した。
「僕はあれから考えていたんです。それで思いました。あなたの中には強い“恨”がある。だから朝鮮語を話せるんだ。僕は話せない。僕の“恨”は弱いんだ」
喉の奥が熱くなるのを感じた。
沖縄ではこの方以外からも、同様のことを幾度と聞いた。
ある人は「言葉を学べる場所があるのはいいですね」と朝鮮学校に憧憬を示し、ある人は「残念なことに私たちは民族学校を持ったことがない」と、肩を落としていた。
ある人は「言葉を学べる場所があるのはいいですね」と朝鮮学校に憧憬を示し、ある人は「残念なことに私たちは民族学校を持ったことがない」と、肩を落としていた。
前回のブログにも少し書いたが、沖縄はウチナーグチという独自の言語を持っている。一括りにウチナーグチといっても、地域ごとに大きく異り多様だ。しかし今はウチナーグチ話者はかなり減少している。ユネスコではウチナーグチを「消滅危機言語」に指定しているほどだ。近年沖縄ではウチナーグチの保存・継承を進める活動が行われているという。
沖縄の人たちとこんな会話を交わしながら、ふと私たちが「他人の言語」で話していることに気が付いた。かつて強制的に「与えられた」日本語を介してコミュニケーションをとっている状況に、違和感と不快感を覚えた。
「植民地化した側の諸民族の言語にとって一民族の言語を支配することは、植民地化したされた側の人々の精神世界の支配にとっては決定的なことであった」
(グギ・ワ・ジオンゴ)
旧宗主国(沖縄にとっては現在においても宗主国といえるだろうか)で、私たちがコミュニケーションツールとして、植民者の言語しか持ち合わせていないのなら、抵抗と連帯の手段として日本語を存分に利用してやろう―。
沖縄の人の「うれしい」という言葉には、歴史の重みと教訓が凝縮されているように思う。
自らの言語を学べる民族教育の尊さを今一度噛み締め、沖縄から「私のいるべき場所」に思いを馳せていた。(淑)
ことば
僕は、沖縄のことばは一つの言語だと思います。アイヌみたいなね。考えなくても分かると思いますが、もともと沖縄は外国ですから、本来は外国語なんです。まあ、専門店なことは、これからもっと勉強していこうと思います。