植民地支配政策としての創氏改名/水野直樹
広告

創氏の届出風景と当時の戸籍(アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷準備会編『写真図解 日本の侵略』より)
日本的「イエ」制度の押し付け
現在の在日コリアンが使う日本的な通名の多くは、日本の朝鮮植民地時代の創氏の時期に届け出を強制された「氏」(名字)に由来するといえます。創氏改名が実施されたのは1940年、戦時体制が強化された時期でした。当時、朝鮮では志願兵制度が実施され、労働力動員つまり強制連行・強制労働が行なわれていました。在日コリアンが使っている日本名について歴史的な経緯を伝えたく、2022年2月号の本誌特集「在日コリアン、名前の話」に掲載した水野直樹・京都大学名誉教授の寄稿を再掲します。
創氏改名政策とはどのようなものだったのか
創氏改名政策は「創氏」と「改名」に分けて考える必要がある。「創氏」とは文字どおり「氏を創る」ことである。朝鮮の家族・親族においては、家の名称である氏ではなく「姓」がある。姓は父親の名字を子どもが引き継いで、結婚をしても変わらないというもの。夫婦が異なる姓を持っているのは、そのためだ。これは父系の親族集団が社会的結合の中心になっていることを表わしている。これに対して、日本の家族は全員がただ一つの名字を名乗っている。これが「氏」である。
このような氏のあり方は、明治時代に「イエ(家)」制度を確立して、天皇への忠誠心を持たせるために定められたものだ。植民地支配の下に置いた朝鮮でも朝鮮人に天皇や日本国家への忠誠心を持たせる、そのためには朝鮮の家族のあり方を日本と同じようにする必要があると支配当局は考えた。その手段の一つが「創氏」だった。

創氏届を急ぐよう促すポスター(水野直樹ほか編著『図録 植民地朝鮮を生きる』 岩波書店、より)
それで、民法に当たる朝鮮民事令を改めて、家の主(戸主)は、1940年2月11日から6ヵ月の間に氏を創って役所に届け出ることを義務にした。その場合に、日本人と同じような二文字の氏がよいとされた。期限までに氏を届け出なければ、戸主の姓がそのまま氏になることが法令で決められていた。夫が金さん、妻が李さんの家が氏を届け出なければ、金が氏になり、夫は金さんのままだが、「李△△」だった妻は「金△△」になった。これは法的な強制であったため、本人の意思とは関係なく、戸籍上の名前が書き換えられた。
一方、改名、つまり下の名前を改めるのは、義務ではなく「任意」とされた。氏は役所に届け出るだけでよかったが、改名は裁判所に手続料を添えて許可を申請したうえ、許可書を役所に届け出るという煩雑な手続きが必要だった。また支配当局も、改名は「後回しでよい」としてあまり力を入れなかった。
なぜ、創氏と改名でやり方が違っていたかというと、名前によって日本人と朝鮮人の区別をする政策をとっていたが、下の名前まで日本人風になると区別できなくなると心配したからと考えられる。日本的「イエ」制度を朝鮮に根づかせることが大きな目的だったので、氏を届け出たのは家単位で8割だったのに対して、改名をしたのは総人口の1割弱に過ぎなかった。
民衆の苦痛と抵抗
朝鮮社会になじみのないものを押し付けようとしたので、反発が強いだけでなく、どのように対処してよいか戸惑う人びとがたくさんいた。家の名称をつくれといわれてもどうすればいいかわからないため、最初、届け出る人はあまりいなかった。
支配当局は、「創氏は朝鮮人への恩恵」といっていたので、届け出率の低さは植民地支配が受け入れられていないことを表わすものとみなして、さまざまな形で圧力をかけて届け出をさせようとした。
朝鮮社会の指導的地位にある者や警察官、教員などは率先して手本を示すべきだとされた。当局は創氏は自由だといっていたが、創氏の政策に対する批判は許さなかった。公然と批判した人が「治安を乱す」という理由で懲役刑を言い渡されている。また、「犬の子」と届け出て創氏政策を批判した人が処罰された例もある。つまり、創氏は朝鮮人側の意思を抑える形で実施されたといわざるを得ない。
朝鮮の社会に残した痕跡
創氏改名が実施されたのは1940年、戦時体制が強化された時期だった。朝鮮では志願兵制度が実施され、労働力動員つまり強制連行・強制労働が行なわれていた。その後、徴兵制度も実施されて、朝鮮人の若者を戦争に動員することになる。その際、動員された人びとの名簿や死亡者名簿には「創氏」あるいは「創氏改名」の名前で記載されることになった。そうなると、戦争による犠牲者の中にどれだけの朝鮮人がいたのかがわからなくなる。
たとえば、大阪で空襲の犠牲になった人のうち1200名ほどは朝鮮人だと考えられているが、現在まで150名ほどしかわかっていない。それもほとんどは日本名しかわからないという状態だ。また、植民地支配から解放された朝鮮半島では、南北いずれにおいてももとの名前に戻す措置がとられたが、戦時期の被害についての資料は創氏名で記されているため、連続性を証明することがむずかしいということもある。何よりも、家族のあり方を強権的に変えようとしたので、朝鮮人すべてに何らかの傷をもたらしたといわねばならない。
在日朝鮮・韓国人に与えた影響
現在の在日コリアンが使う日本的な通名の多くは、創氏の時期に届け出を強制された「氏」(名字)に由来するといえる。もちろんそれ以前に日本人風の名前を名乗る人もいたし、45年の解放後(日本敗戦後)に通名を変えた人もいるので、すべてが創氏政策によるとはいえない。
しかし、在日コリアンの多くが日本人風の名字を使うようになったのは、創氏が実施された時期からであったことは間違いない。それが、解放後も続いたのだが、そこには朝鮮人に対する日本社会の偏見と蔑視が作用していた。差別から逃れるため、あるいは差別を受けないようにするために、生活をしていく上で日本的な通名を使うことになったといえる。しかし、そのようなあり方は、個々の人のアイデンティティ、さらには民族的なアイデンティティを損ないかねない。一律に朝鮮名を名乗るべきだというのではなく、朝鮮名で生きていけるよう日本社会の偏見、差別をなくすようにしなければならない。
みずの・なおき●京都大学名誉教授。朝鮮近代史、在日朝鮮人史を研究。著書に『創氏改名―日本の朝鮮支配の中で―』(岩波新書、2008年)、『「アリランの歌」覚書』(共編、岩波書店、1991年)、『生活の中の植民地主義』(編著、人文書院、2004年)など。
民族名をめぐるたたかい
在日朝鮮人の名乗りをめぐるたたかいのうち、民族名をめぐる差別を司法に訴えたケースをいくつか取り上げる(編集部)
まずは、崔昌華さん(牧師)の「NHK日本語読み訴訟」。崔さんは1975年、自身の名前を「サイショウカ」と日本語読みし続けるNHKに対して、1円の損害賠償を求めて裁判を起こした。裁判は88年、原告敗訴が確定したが、最高裁は氏名を人格権として認め、法的保護対象と位置づけた。この裁判はメディアで慣例となっていた韓国、朝鮮人名の日本語読みを見直すきっかけとなった。

「イルム裁判」の控訴審判決言い渡しを前に大阪高裁へ入廷する原告の金稔万さん(写真右から3番目)と弁護団、支援者ら(2013年11月26日)
2005年2月には、大手住宅メーカー・積水ハウスに勤務する徐文平さんが仕事で日本人男性宅を訪れた際に、民族名が記された名刺を差し出したところ、男性から差別発言を受けた。徐さんが男性を訴えた裁判は、被告側の和解金と謝罪で和解が成立。原告の勤務先が裁判を全面支援したことでも注目を集めた。
最近では兵庫県在住の金稔万さんの「イルム(名前)裁判」がある。2009年、大阪市内のビル建て替え工事に本名で就労した金さんに対して、下請業者の担当者がヘルメットの名前のシールを「きむ(金)」から「かねうみ(金海)」に貼りかえるなどした。金さんは日本名強要によって精神的苦痛を受けたとして翌10年、元請と下請会社、国を相手取って損害賠償裁判を起こしたが、14年、最高裁で原告敗訴が確定した。(月刊イオ2022年2月号特集「在日コリアン、名前の話」から転載)