地域に根ざした文化活動担う―朝鮮歌舞団の歩み
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日本各地の朝鮮歌舞団はどのような経緯で結成され、どのような道を歩んできたのか。在日朝鮮人音楽史などを研究する東京外国語大学特別研究員の金理花さんに寄稿いただいた。
生活のなかの音楽団
歌舞団とは、在日同胞コミュニティに根差して民族音楽や舞踊、漫談・話術などを通じて文化活動を行ってきた団体です。その活動スタイルは、地域の同胞たちが集う各種行事や結婚式などの慶事、朝日交流事業などの場で公演を披露したり、朝鮮の歌や民族楽器を日常的に教え普及したりと、まさに在日同胞たちの生活に寄り立った活動をつくってきました。歌舞団は最も多いときで12都道府県を拠点に12団体が活動し、2024年現在は、東京・京都・大阪・兵庫・広島・福岡の各朝鮮歌舞団が、同胞に愛される音楽団をモットーに活動を続けています。
分断・冷戦の対立のはざまで
歌舞団は、1965年から総聯によって全国に次々と組織されていき、朝鮮の歌と踊り・話術を通じた情勢解説をおこなう機動宣伝隊として活動を始めました。当時は「朝鮮文宣団」として結成され、1967年末の広島朝鮮歌舞団結成を境に名称が「歌舞団」で統一されるようになります。
文宣団・歌舞団の発足にあたっては、まず各地域における朝青文宣隊を改編する仕方で組織化が進められていきました。総聯では1960年代初め頃から文化活動の一環として、地域での音楽活動をリードする担い手の育成を目的とした講習会や、学生部門と成人部門を設けた全国芸術競演大会も実施していて、そうした大衆音楽活動の振興事業が継続して行われていたことが発足の足がかりになったといえます。
歌舞団が結成された背景には、1965年の韓日条約締結によっていわゆる「65年体制」が前面化していた同時代状況がありました(*1)。在日同胞コミュニティにかかわる影響としては、例えば、韓国国籍の人にはより安定した在留資格の「協定永住権」が新たに付与されるようになって、朝鮮籍の人は引き続き不安定な在留資格のままといった状況が生まれるようになります(少し時代は遡りますが、1947年に外国人登録令が出されて以降、在日同胞の多くは朝鮮籍でした)。このような状況で韓国国籍のみを優遇するというのは、在日同胞コミュニティの中に国籍と在留資格による分断を促進させる事態であったといえます。
加えて、朝鮮籍か韓国国籍かをめぐっては、これも朝鮮の南北分断・冷戦対立の影響を大きく受けながら、総連と民団どちらの民族団体の側なのかという指標としても当時数えられていたため、国籍と在留資格による分断が起こるということは、同胞たちの間にさらなる政治的対立をもたらす事態でもありました。
こうした情勢を背景にして考案されたのが機動宣伝隊という活動であり、その役割を期待されたのが当時の歌舞団でした。その目的は、多くの同胞たちの身近なところで朝鮮の歌や踊り、そして話術を通じて現在の政治情勢や総聯の運動路線について知ってもらうというもので、文字通りポリティカルな文化運動としての側面があったことがわかります。ですが、視点を変えて考えると、このような歌舞団の歴史は、在日朝鮮人が日本に居ながらにして南北分断・冷戦の影響をとてもつよく受けてきたということを示しているともいえます。
運動と生活を架橋する
歌舞団の出発点は、緊張する政治情勢を背景に総聯の宣伝活動の一環で組織されたものでした。ですが、実際に活動をはじめると、機動宣伝隊としての役回りを与えられると同時に、地域に暮らす同胞たちを前にいかにしてその心をつかみ、多くの人々に耳を傾けてもらうのかという大きな課題に団員たちは直面していくことになります。つまり、歌舞団活動とは、総聯の宣伝活動としての側面と、生活の場で同胞たちが求める音楽を敏感にとらえて、人々の心情に寄り立った舞台をその都度つくり出すことが求められる、いわば大衆音楽活動としての側面を併せ持ちながら、実際にはこの2つを架橋する活動として実践されていったといえます。これは、在日朝鮮人の芸術団体として1955年から活動していた中央芸術団(現金剛山歌劇団)が、全国を巡回しながら芸術公演を広く上演する活動を主としていたなかで、歌舞団の活動は同胞たちが暮らす地域に密着して生活の場にダイレクトに立ち入り活動するという他にはない特徴を持っていたからでした。
結成からおよそ60年の間には、実にさまざまな活動がありました。花見や年末年始の忘年会や新年会、同胞の結婚式などでの公演、地域の歌唱サークル(ノレソジョ)や長鼓、伽耶琴などの民族楽器サークル(チャンゴソジョ、カヤグムソジョ)での練習指導は、結成当初から現代まで共通する代表的な歌舞団活動といえます。
1965年以降1980年代にかけては、各地域で歌舞団団員の人数が15名前後を数えるようになり、歌舞団競演大会が毎年開催されたり、総聯の中央大会などで全国の歌舞団が集まって100名規模でのアンサンブル公演を度々上演したりと、大人数ならではの活動が展開されました。歌舞団の歌い手とアコーディオン奏者が舞台に立って参加者に歌を教える「歌唱指導」は、中央大会おなじみの光景だったといいます。現在ではシンセサイザーなど電子楽器の普及と奏者の引退に伴い、歌舞団公演でアコーディオンを目にすることはなくなりましたが、歌舞団といえばアコーディオンと言っても過言ではないくらい活動を支える重要な楽器でした。また、同胞たちの生活やその時々の政治・社会情勢に対する風刺を取り入れたユーモラスな漫談・才談や「芸術扇動」(*2)は歌舞団のお家芸的演目で、1980年代から1990年代にかけては特に盛んに取り入れられました。
2000年代以降は、団員の人数がそれまでの大人数から少数精鋭に徐々に変化していくなかでも、朝鮮学校での公演や、学生から大人まで幅広い年齢層に対する歌や楽器の練習指導、朝日友好親善の集いでの公演など、在日同胞コミュニティに寄り添った活動を展開し続けています。日本で暮らす在日朝鮮人にとっては、生活に身近な場で民族的な歌や踊りに触れ、それらを通じて繋がり合うことができる環境が決して当たり前ではないなか、そういった場をつくり出すことで在日同胞コミュニティを守ってきたのがまさしく歌舞団なのです。
(*1)韓日条約の締結は、韓国と対峙する朝鮮民主主義人民共和国に米韓日が「三国同盟」として対抗する体制を意味するものであったため、総聯はこれに強く反発していました。
(*2)漫談や小芝居をおりまぜ歌や音楽をふんだんに使ったコミカルな演目。
金理花(きむ・りふぁ)●1990年生まれ。専門は在日朝鮮人音楽史、歴史社会学、音楽文化論。東京朝鮮中高級学校卒業、武蔵野音楽大学音楽学部声楽学科卒業、東京外国語大学大学院博士前期課程及び博士後期課程修了、博士(学術)。東京外国語大学特別研究員・非常勤講師、同志社大学コリア研究センター嘱託研究員、上智大学アジア文化研究所客員研究員、ほか。
※月刊イオ2024年9月号に掲載された本記事中、編集上の不備によって一部誤った内容が掲載されました。筆者および読者のみなさまにお詫びいたします。ウェブ掲載記事では修正済みです。