出張月記 Vol.6 都内そして中国地方で
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これまで出向いた出張先でのあれこれを綴る出張月記。月1で行くであろうと思い、始めた投稿だったが、昨年末から1月中旬までは、めずらしく出張がなかったため、少し開いてしまった。
今回は、先月末の都内での取材から中国地方での取材までを話そうと思う。

今年、学校創立80周年を迎えた東京朝鮮第2初級学校
1月24日、東京朝鮮第2初級学校を久しぶりに訪問した。目的はこの日に開催された、同校の創立80周年を祝う行事。記念式典・学芸会・祝賀宴の3部構成で、時間が進むに連れて卒業生や地元の同胞たちなどが続々と集まってきた。長年同校を支える枝川朝鮮学校支援都民基金のメンバーたちなど日本の市民たちも駆けつけ、祝賀宴が始まる頃には参加者でいっぱいとなった。
東京第2初級が位置する江東区・枝川の一帯は、今では再開発によりタワーマンションや商業施設が立ち並び、地価高騰が著しい場所。埋立地であるここは、かつてごみ処理場しかない荒地で、まともな排水施設もない極めて劣悪な環境だった。

在校生たちによる学芸会も行われた
東京市役所「昭和十年国勢調査附帯調査統計書」によると、1935年10月1日時点で、深川区(現・江東区西部)に5067人、城東区(現・江東区東部)に3622人の朝鮮人が住んでいた中、41年7月、深川区・枝川に1000人を超える朝鮮人集落が姿をあらわした。前年に開催予定だったオリンピック会場の確保のために、同区の塩崎、浜園のバラックに住んでいた朝鮮人を、枝川に移住させたのだった。強いられた生活環境の変化の下で、住民たちが支え合いながら自力で住宅管理や下水道、ガス引き込みなどすべて解決してきた地域。東京第2初級の歴史は、その延長線上にある。
この歴史性は、2003年12月に東京都が同校を相手取り、土地明渡し等請求訴訟(07年3月、「裁判上の和解成立」という学校側の事実上の勝利で終結)を起こした当時、初公判後の会見場で語った金敬蘭さんの発言から垣間見ることができる。

「民族教育は私たちの権利、希望、命である。命まで奪われてはたまらない」。ちなみに金さんは、半世紀以上を枝川で暮らしながら、枝川分会長を1年、女性同盟支部で専従活動を43年にわたり歴任した地元の生き字引のような方だ。
24日の記念行事は、そんな同胞たちの血と汗と涙が刻まれた同校の80周年を祝うため、卒業生、元教員、枝川に長く住む同胞などが参加。皆が「第2ハッキョ」が、これからも枝川の地にあり続けることを強く願っていた。

マイクを握り、学校での思い出を話す林洋さん
約20年にわたりバス運転手や教育会役員として学校を支えた林洋さん(88)は、「ハッキョが心の故郷であり続けるようこれからも力添えしたい」と話し、今年20歳を迎えた宋昌学さん(朝鮮大学校政治経済学部2年、73期卒)は、「自分が朝鮮人であることを教え、成長させてくれた場」だと母校への感謝を口にした。宋さんは将来、公認会計士になるのが夢だという。その夢をかなえるための原動力は「資格をとって母校や地域に恩返しすること」。まっすぐに語るかれの瞳に、決意がにじんでいた。

笑顔はじける演目に、会場からはたくさんの拍手が注がれた
この日、取材に応じてくれた元校長の李花淑さん(78)の言葉も印象深かった。「一つの支部で、一つの学校を責任持つのは並大抵の苦労ではない」。80年間同校を守ってきた関係者たちを称えての発言だったのだろう。世の中には、変わるものと変わらないものがあるが、後者がどのようにして成り立つのかを、深く考えさせられた言葉だった。
岡山→広島→山口
この日の3日後、都内で特集取材を終えて、1月31日から出張先の中国地方へと向かった。
今回の出張は、岡山、広島、山口の3県。イオでの出張は、特集や単独企画など、基本的にメインとなる取材ネタで訪問地を決め、それに合わせて連載取材なども組む。

初訪問した津山の駅名標は木製だった
旅の始まりは初の訪問地である岡山県・津山市。目的はお店の取材で、創業から52年を数える同胞焼肉店「和牛やきにく園楽」を目指した。事前に店主の金泰栄さん(岡山県商工会会長)から「1時間に1本しか電車がない」と聞き、準備万端で岡山から津山へと向かうローカル線に乗車。電車にゆられること約1時間半後、終点の津山駅に到着した。やはり初めての地は心が躍る。24年に開業100周年を迎えたという駅は、木製の駅名標にはじまり歴史を感じさせる要素があちこちで見られる。
無事にお店に到着し、店内で待機していると、お昼時間ともあって客が次から次へと入ってきた。
忙しい時間帯だったにもかかわらず、金さんはこの日の取材後、津山市内に残る朝鮮ゆかりの地を一つひとつ車で周りながら案内してくれた。

グリーンヒルズ津山の敷地内に植えられたメタセコイアの木
広大な市立公園・グリーンヒルズ津山の敷地内に植えられたメタセコイアの木。木の横には、植樹の背景を説明する碑があり、総聯美作支部と津山市の名が刻まれていた。これは2003年2月、朝・日友好親善の証として記念植樹されたものだという。はじまりは朝鮮への帰国船が運行された1959年12月、津山在住の同胞たちの帰国を祝い、当時の総聯支部委員長と市長によって津山城跡にメタセコイアの植樹が進められたこと。二人の「深い友情の絆で実現した」(碑文より)ものだった。

メタセコイアを記念植樹した際に建てた碑には、朝・日交流の歴史が刻まれている
その後、城跡の整備事業のために伐採せざるを得なくなり、2002年10月に平壌の錦繡山太陽宮殿の周囲に整備された錦繡山樹木園へ、城跡の若木と津山を象徴する花・桜とサツキを植樹したそうだ。その流れで、ここグリーンヒルズにも植樹されたのであった。
そのほか、市営八出墓地の一角にある朝鮮人共同墓地や、豊臣秀吉による朝鮮侵略で、日本の武将らが持ち帰った朝鮮人の耳を埋めたとされる「耳地蔵(耳塚)」なども巡った。この日は行かなかったが、市内には他にも遺構があるとのことで、次は歴史企画を立てて再訪問したいと思った。

市営八出墓地の一角にある朝鮮人共同墓地


豊臣秀吉による朝鮮侵略で、日本の武将らが持ち帰った朝鮮人の耳を埋めたとされる「耳地蔵(耳塚)」

ご馳走になった津山名物そずり鍋。骨の周りの肉(そずり肉)から出る濃厚な旨味がクセになる美味しさだった
その後、岡山へ移動し、そこから広島へ。2日後、特集の座談会取材のために広島初中高へと向かった。19時過ぎ、既に駅から学校までの道は真っ暗で、カラスの鳴き声と風に吹かれる木の音も相まってビビりながら坂を上る。学校につながる脇道を見逃し、そのまま山道を上がり続けた先には、人気のない家々が並ぶ。おかしいことに気づき、来た道を下っていく10分が、1時間のように感じられる恐怖体験だった。
ただ座談会取材を無事を終え、その日の終電で山口へ移動しなければならない筆者を気遣い、帰りは保護者会会長が広島駅まで送ってくれた。聞けば、大学の後輩の叔父だという。「同胞社会って狭いよね」。この馴染みある会話を、この日も例外なく交わして笑いあったのだった。
◇◇◇
長くなったが、ここまで紹介した取材の内容は、いま絶賛制作中のイオ3月号で紹介しているのでお楽しみに…。

東京・国平寺の尹碧巖住職が、犠牲者たちの名前を朝鮮語で読み上げた
そして5日から8日までは、遺骨収容のための潜水調査と水没事故犠牲者追悼式が行われる山口県宇部市の長生炭鉱へ。4日間、調査前の会見、遺骨収容、追悼式、台湾ダイバーが亡くなった事故、その後の緊急会見まで、目の前の光景に心も体もついていけなくなりそうな、言葉にできない感情で過ごす怒涛の日々だった。(そんな中でも、初日の午前中は、広島朝鮮初中高級学校の生徒や教員たちのフィールドワークに帯同したのだが、共にした3人の記者たちは生徒たちがくれる笑いに心癒されていた)。

6日に収容された遺骨と対面する遺族たち(写真左)

山口県警宇部署は9日付で、収容された骨が「人骨」(頭蓋骨1点、下顎の骨1点、首の骨が3点と、人の歯9本)であると発表した

遺骨収容のための潜水調査に参加していた台湾出身のダイバー、魏修(ウェイ・スー)さん(57)の死亡を受け、急きょ献花台が設けられた。
詳細は、朝鮮新報にいくつか記事を書いたので、ぜひご一読いただきたい(イオ4月号でも紹介予定だ)。一連の流れを現場で目撃しながら、同胞メディアをうたう月刊イオの記者がやるべきことを改めて考えている。
長生炭鉱での4日間については、後日ブログで書きたいと思う。ともあれ、久しぶりの出張は、自身の知恵を豊かにするたくさんの経験と知識を与えてくれた。
(賢)








