言葉を届ける
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現代とは、生きる理由を通常は構成すると考えられているいっさいが消滅し、すべてを問いなおす覚悟なくしては、混乱もしくは無自覚に陥るしかない、そういう時代である。権威主義的で国粋主義的な運動が勝利して、およそいたるところで、律儀な人びとが民主主義と平和主義に託した希望がくずれさっているが、これもまた、われわれを苦しめる悪の一部にほかならない。悪は、はるかに深く、はるかに広く根をめぐらせる…
上で引用したのは、シモーヌ・ヴェイユ(1909-43)の著書『自由と社会的抑圧』(岩波文庫、2005)の序文の一部。
ヴェイユがこの本を著したのは1934年、25歳の時だというから驚く。
この本を買ったのは今から20年近く前だろうか。自分ごときがヴェイユの思索を理解できるとは思っていなかったが、多分に背伸びして購入したのだと思う。
年初のアメリカによるベネズエラ急襲、そして高市政権による突然の衆議院解散。「外国人問題」なるものが選挙の重要争点に浮上している。大義なき解散総選挙の喧騒を、選挙権のない立場で眺めながら、悪くなる一方の世の中にため息をつく。
そんな時にふとこの本を読み返したくなり、自宅の段ボールの奥底からサルベージしてきた。
ここからが本題。
こういう時代だからこそ、雑誌編集を生業とする者として、読者に「言葉」を届けないといけないと思っている。力強い、希望の言葉。いや、力強さや希望にあふれていなくてもいい。この混沌とした時代を生き抜くためのヒントとなるような言葉を―。

そのための本誌なりの実践の一つが、2月号から始まった時評エッセイの新連載「いまを視る」だ。初回は、弁護士の李春熙さんが「『すべて無駄だった』とは言わせない 高校無償化裁判と時代の空気』というタイトルで文章を寄せている。李弁護士は元東京無償化裁判弁護団の一員として、敗訴に終わった裁判を振り返りながら、この裁判闘争からくみ取ることができる最良の教訓と未来へ受け継ぐ成果とは何なのか、次の時代の「勝利」のために私たちがすべきことは何なのかをつづっている。あくまで私個人が知る範囲だが、この間、会って言葉を交わした少なくない数の人々から、「あの文章よかったよ」という感想をいただいた。
時評エッセイ「いまを視る」の初回が掲載されたイオ2月号は絶賛発売中だ。本誌の定期購読はこちらのページから。
Amazonからも購入可能だ。(相)








