海老名香葉子さん、ありがとうございました
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海老名香葉子さん(2023年)
戦争孤児の悲しみを伝え続けた「林家一門のおかみさん」―海老名香葉子さんが、2025年12月24日に亡くなった(享年92)。
海老名さんは1945年の東京大空襲で兄一人をのぞく一家6人を失い、孤児として各地を転々とした後、三遊亭金馬師匠に助けられ養子に。その縁で落語家・林家三平と18歳で結婚。1980年に夫と死別した後は、コメンテーター、エッセイストとして活躍し、一門を守ってこられた。
東京都墨田区の下町で育った海老名さん。45年3月10日の東京大空襲の時は疎開していたが、多くの親族を奪った米軍の焼夷弾は、「原爆に匹敵するくらいの怖さ」だと話していた。
…下町一帯ではたった2時間の間に約10万人が亡くなりました。東京の人たちは、本当に大変なことを経験したんです。
深川、本所、浅草、向島…あの木造の密集地で、一番密度が高い、 人口が多い、木と紙でできている場所に米軍は焼夷弾を落としたんです。逃げ場をなくして丸焼けにした。焼夷弾の怖さは、原爆に匹敵するくらいの怖さです 。
聞いたときは、卑怯なやり方だなと思いました。なぶり殺しです。
焼夷弾にはいくつか種類があって、例えば1万メートルから落とすと1発が300発になるものもあります。それが地上から700メートルほどの高さまでくると、その2倍になって600発になる。それに焼夷弾というものは粘着性の火の玉なので、それが落ちてくっついたら、そこから燃えてどこまでも燃え広がっていきます。子どもにくっついて親が取りのけようとすると、親の手にもくっついてしまう。それが下町一帯に落とされたのです。
燃え広がった火の中にいた人はどんなに苦しかったでしょう。3月10日の東京を偉い人が見て、戦争を止めていたら、沖縄戦、広島や長崎の原爆もなかったはずでした…。(月刊イオ2023年8月号より)
朝鮮人との豊かな出会いも話してくれた。
近所に住んでいた金物屋のおじさんとおばさんが朝鮮人との初めて出会いだったと、そして、その夫婦が幼い海老名さんをよく家にあげてくれ、朝鮮飴を見せてくれたときの驚きと感動…。
また、命の恩人・李医師のことや地元コリアンの新年会で「アリラン」を聞くのが楽しみだったという話も印象深い。会うたびに柔和な笑顔に癒されたが、その笑顔は幾多の悲しみに涙し、その涙をのんで、人生の山と谷を乗りこえてきた「強さ」に裏打ちされていた、と今は思う。
おかみさんは、東京都墨田区の朝鮮学校の雨漏りがひどいという話を聞いたとき、すぐに墨田区や東京都に電話をして改善を訴えてくれた。おかしいと思ったら、それが誰であれ、すぐに行動するまっすぐな気持ちを持った情の厚い方だった。

都内で行われたコンサートで戦争体験を切々と語る海老名さん(2023年6月)
ウクライナ戦争に胸を痛めたロシア人の母親から手紙をもらった海老名さんは2023年、戦争なき世界を求めて「ババちゃまたちは伝えます」という歌を作られた。多くの人に届けたいと、歌詞は日本語、中国語、英語、朝鮮語で作られ、朝鮮語の歌はそれまで縁を結んできた東京朝鮮第1初中級学校付属幼稚班の子どもたちがメロディーにのせ海老名さんの思いを伝えた。
泣いて、笑って、がんばって
1月9日に寛永寺で行われた「お別れの式」で長男の林家正蔵さんは、「『泣いて、笑って、がんばって』。母がよくきれいな字で色紙に書いていた言葉です。これはもう母の人生そのものだったと思います」と語り、40代で伴侶を亡くした後、日本各地で講演を重ね、作家として執筆を続けながら一家を支えた母の姿を悲しみをこらえながら伝えていた。
「おふくろの思いはひとつ。この上野のどこかで眠っている家族、空襲で亡くなった皆さんを弔うために、私みたいな戦災孤児を二度と生んではいけないと、母子像を建てました。
おふくろはいつも一生懸命。人様からいただい縁を大事にしてきました。おふくろの縁を大切にし、落語を真っ当にやっていきたいと思います」
海老名さんに手を合わせた後、海老名さんが寛永寺の一角に建てた慰霊碑「哀しみの東京大空襲」を見に行った。小高い丘から東京が見下ろせる場所に碑はある。

寛永寺にある慰霊碑「哀しみの東京大空襲」
海老名さんが残した大きな仕事は、2005年に上野公園の一角に海老名さんが建てた「時忘れじの塔」だ。
海老名さんが全財産を失ってでも建てようと決心し、都をはじめとする方々に働きかけ、ついに都の認可を得て建てられた「時忘れじの塔」。この塔の前で海老名さんは毎年3月9日、「時忘れじの集い」を開き、戦争の悲惨さを伝え続けてきた。

毎年3月9日には東京・上野公園で「時忘れじの集い」を開いて東京大空襲の体験を伝えてきた海老名さん(左、2024年3月)後ろにあるのが「時忘れじの塔」

海老名さんが作詞した「ババちゃまたちは伝えます」を歌う東京朝鮮第1初中級学校付属幼稚班の児童たち(2024年)
「戦争に勝者も敗者もない。庶民が一番苦労します」
「戦争孤児の悲しみを伝えつづけます」
おかみさんが語ってくれた言葉だ。
生涯想い続けた両親ときょうだい、夫の元へ旅立たれたおかみさん。
優しい気持ちで見守ってくださり、ありがとうございました。安らかにお眠りください。(瑛)
※海老名香葉子さんのインタビューは別冊・月刊イオ 「18人が語る 私とコリアン」https://www.io-web.net/ad_watashi-to-korean/に掲載されています。








