「日本人の男性がいちばん弱い」?
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少し前、とあるトークイベントに参加したとき、とてももやもやする出来事があった。トークテーマは書くことや創作にまつわること。文章をなりわいにするゲストが方法論について語った。イベント終盤、質疑応答の時間に「小説家志望」だという人がこんなことを言った。
「『ハンチバック』みたいな、当事者性が反映された“強い”作品を出されてしまうと、われわれ健常者はそれを超える作品を書けるのかと感じてしまう」
※『ハンチバック』~市川沙央さんによる小説。先天性の筋疾患によって重い障害のある主人公を描き、2024年に芥川賞を受賞した
この時点で(ん?)と感じたが引き続き聞いていると、その人は他にも「最近はそういう、特殊な経験を持たない人たち、つまり日本人の男性がいちばん弱い」ともこぼした。念のため書くと、ここでいう「弱い」は創作の題材にできるネタがない、あるいは文芸誌などの新人賞で賞を獲れるような引きがない、という意味だ。
あっけにとられたあと強烈な違和感に襲われた。率直に、よくそんなことが言えるなと思った。日本人で、健常者で、男性。これまでマイノリティには無関心でいながら(無関心かどうかは私の勝手な想像だが、さまざまな当事者と日常的にかかわっている人の口からこうした意見は出ないような気がする)、自身が興味のある領域で脚光を浴びている人を見たら、それを「もともとの属性や特徴が有利だから」という風に見る。
当事者がふだん実際に経験している、日常の不便、差別、その中で生じる悩みや葛藤には目が向いていない。時には生命の危機に瀕することもある。これらをすっ飛ばして「強い」だの「弱い」だの安易にジャッジする態度、「当事者性」という言葉を使いながらもまったく当事者が見えていない、どこまでも特権的な立場にいる人の認知がこわかった。
いま、さまざまなマイノリティが発信する物語や言葉が注目を浴びているのは、単なる当事者性によるものだけではないだろう(中には「当事者性がブームだから」という認識でコンテンツを企画する側の人々もいるだろうけれど)。
これまで言葉を上げることのできなかった立場の人たちが、場合によっては何世代にもかけて収斂させた思いをさらに練り上げ、自身の尊厳や地位を守るため、あるいは「ここにいるよ」と伝えるため、他者と比較せず懸命に書き上げたものだから、読む人にも何かを残すのではないだろうか。(理)