次男のトルチャンチ
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先日、次男が1歳の誕生日を迎えた。
家族、親族が集まって息子のトルチャンチ(1歳のお祝い)を行った。
思い返せば、5年前、長男が1歳を迎えたときは新型コロナウイルス・パンデミックの真っ只中だった。人が1ヵ所に大勢集まるということがはばかられる時期だったため、トルチャンチは外から誰も招待せず家族3人で質素に行った。
そんなこともあり、次男のトルチャンチは狭い自宅に10数人が集まって、それなりに盛大に催した。
集まった顔ぶれを見ながら思った。両家が集まる機会といえば葬式が多い。笑顔あふれ、みんなで楽しく過ごす場などめったにない。準備は大変だったが、やってよかったと素直に思った。
すくすくと育つ目の前の幼い命を寿ぐ。そこに特別な理由などない。
さらに言うなら、私が今ここにいる意味、パートナーと結婚した意味、子どもを授かった意味。そんなものはない。たまたまそうなったのだ。
人は何事にも意味を追い求める。意味があることこそが重要であり、意味がないことは苦痛だと感じてしまう。目の前の事象に何かしらの意味づけをしてしまうのは、職業柄もあるだろう。
「意味なんか/ないさ暮らしがあるだけ/」と星野源はうたったが、人生とは案外そんなものだ。
もちろん、「意味がない」からといって価値がないというわけではない。「意味」に囚われないこと。「意味」によって満たされることのない「余白」を大事にしたい。そう思っている。
息子よ、君がこの世に生を受けたことに何か特別な意味などない。そう言ったら君は怒るだろうか。でも、本当のことだから仕方ない。たまたま生まれたのだ。そこに必然性も、意味もない。
でも、だからこそ、親である私は、その生を無条件で祝福したいし、大切に育てていきたいと思っている。(相)