自分を遠くまで連れていってくれるもの
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GWは夫の実家に行ってきた。1泊2日という短い日程だったが、シオモニ(夫の母)が「せっかくならどこかお出かけしましょう」と提案してくださり、青梅市にある塩船観音つつじ園という場所へ行くことに。
つつじは決して馴染みの薄い花ではないものの、それを目指して出かけるということがこれまでなかったため新鮮な気分だ。
目的地へ到着。通常入園料は300円だが、開花状況を鑑みて100円割引されていた。どうやら大半の花はすでに散ってしまっているらしかった。
それでも、園の中心部へ進み、坂道を上がっていくと……
十分きれいな景色が広がっていたのだった。高い方へ登るごとに緑とピンクのパノラマが広がり、いちいち「きれい!」「すごい!」と感嘆の声が漏れた。
午前中はやめに家を出たこともあり、お昼ご飯にはまだ少し時間がある。シアボジ(夫の父)がハンドルを握り、「ものすごく大きなスギだかヒノキだかがある神社」に寄り道してくれることになった。
到着してみると、そこにあったのは樹齢800年超(!)の巨木。そしてスギでもヒノキでもなく、ケヤキだった。
しかし、その神社で特に印象的だったのは、奥の方にひっそりと植えられていた梅の木だった。ただの梅ではない。その名も「不朽梅」だ。
梅の木は、樹齢二百年を越えるとねじれてくるのだそうです。
この梅の木の樹齢は四百年位とのことですが、老いてなお、花を開かせ、新しい芽を伸ばすなど勢いがあります。
数百年経った梅はこんな風に形を変えるだなんて全く知らなかった。

この写真だと少し分かりにくいかもしれないが…

お分かりだろうか…
自然のバネのような、ものすごい形をしている。
「신기하지. 푸르싱싱하게 자라나고있다.」(不思議だね。青々した葉っぱが今も生えてきてて)
シオモニの言葉に深く頷く。ほとんど朽ちかかっているように見える幹を通して栄養が伝達され、枝の先からはしっかりと新緑が芽生えている。かなり良いものを見たな、という充足感が残った。
***
自分的に書きたかった本題に向かうまで、前置きがかなり長くなってしまった。
この日、段々に連なるつつじの木や、極限までぐるぐるにねじれて、まるで首の皮一枚でつながっているような状態の梅の木を見ながら自分が感じていたのは「驚き」だった。
思いもよらなかった光景、概念、価値観に出会った驚き。それを受けて初めて対象を見つめる解像度がぐっと上がる瞬間。現役で記者をしていた頃、取材の先々で経験した感覚と同じものだ、と思った。
例えば(いま考えると若気の至りでとても失礼な先入観だが)、「お堅い」話ばかり続くのではという印象があった権利向上のための会議や集会の場で、とても血の通った言葉が語られていたこと。
たくさんの人が集まる行事のなか、特に主張もせず控えめに佇んでいた人が語る思い出の豊かさや思い入れの強さ。
いわゆる過疎地といわれる地域で条件に適応しながら編み出された、そのコミュニティならではの人間関係や取り組み。
もちろんネガティブな驚きもある。こんなにひどい差別をしてしまえるのか。こんなに理屈が通らないのか。こんなに聞く耳を持ってもらえないのか……。
どのような性格のものにしろ、種々の驚きに遭遇することで一気に対象へ意識が向き、もっと知りたい、もっと引き出したいと追いかけるうちにいつも当初の想定よりもより深いところ、より遠いところに行けたような気がする。
仕事をする上で原動力になるものは人それぞれ。自分の場合はそれが純粋な驚きなのだなと、予期せぬタイミングで自覚したのだった。(理)