歴史修正と差別反対が共存?
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沖縄県読谷村にある座喜味城跡(世界文化遺産)からみた景色。座喜味城は、沖縄戦で日本軍が高射砲台を築くために一部破壊された。日本の敗戦後には、米軍がレーダー基地を設置したためにふたたび破壊されたが、その後復元・修復工事がなされた。
沖縄・ひめゆり資料館の展示に関する自民党議員の発言が批判を呼んでおり、今後広がるものとみられる。
発端は今月3日、那覇市内で開かれたシンポジウムで、太平洋戦争末期の沖縄戦に動員され犠牲となった生徒や教員を慰霊する「ひめゆりの塔」(沖縄県糸満市)の説明文について、同議員が「歴史の書き換え」などと発言したこと。各紙の報道によると、シンポで議員は、「何十年か前にお参りに行ったことがある」として、「塔の説明のしぶりがひどい」と発言。その理由を「日本軍がどんどん入ってきて、ひめゆり隊が死ぬことになった。そして、アメリカが入ってきて沖縄は解放された、そういう文脈で書いている」とのべたうえで「あれで亡くなった方々は本当に救われませんよ。歴史を書き換えられるとこういうことになっちゃうわけですね」と持論を展開した。
その他にも同議員は、戦後の歴史教育は「デタラメ」、沖縄での歴史教育に至っては「地上戦の解釈を含めてかなりむちゃくちゃな教育のされ方をしている」と主張。「自分の頭で考え、物を見て、流されている情報が、何が正しいのかということを自分たちで取捨選択して、自分たちが納得できる歴史を作らないといけない」と語った。
ひめゆりの塔は、1945年の沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校の生徒・教師など沖縄戦犠牲者の慰霊碑で、46年に両校で最も多くの犠牲者を出したガマ(鍾乳洞)の上に建てられた。碑には陸軍病院に看護要員として動員された240人中136人と、その他の地域での犠牲者91人からなる計227人の名が刻まれている。
今回の「歴史書きかえ」発言に対し、地元紙は「沖縄戦の史実をゆがめ、体験者証言や沖縄戦研究を愚弄するもの」(琉球新報)などと徹底批判し、玉城デニー知事も「沖縄戦の実相をゆがめる由々しき発言。認識錯誤も甚だしい」と批判した。
自民党県連や公明党からも撤回などを求める声があがるなか、当の本人は、7日に会見を開き「事実を言っているため撤回の考えはない」との意向を表明。会見では、「当時展示をみた印象は、日本軍が入ってきて戦争がはじまり、アメリカが入ってきて戦争が終わり平和になったというもの。それはちょっと、あの戦争がなんでおこったのかということをもう一度考えないと、そういう文脈では沖縄の方々は救われない。そういう趣旨の話だったが、なぜか新聞報道では違う形で切り取られて出ている」と発言。議員は、「記者の思い込みで記事がつくられ報道が広がることに危うさを感じる。事実をもとに取材していただきたい」と怒りをあらわにしていた。
しかし、上に紹介したシンポでの発言と、会見時の弁明内容は同様の文脈で語られており、「切り取り」と指摘するほど大きな事実の差はない。もっといえば、シンポを報じた地元紙の記事は、講演時の議員の発言をもとに書かれたもので、事実をもとに取材したとみるのが妥当だろう。
太平洋戦争末期の1945年、南西諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合軍と日本軍との間で行われた沖縄戦。同年3月26日に慶良間諸島に上陸した米軍と日本軍との主な戦闘は沖縄本島で行われ、約3カ月のあいだ、沖縄の住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた。
「米軍は、日本本土攻略の拠点として沖縄を確保するため、圧倒的な物量で攻撃しました。日本軍は、沖縄を本土防衛の防波堤と位置づけ、米軍の本土上陸を1日でも遅らせるために、壕に潜んで長期戦にもちこむ持久作戦をとりました。この作戦が沖縄戦を長引かせ、日米の戦死者は20万人以上にのぼりました。その6割に当たる12万人は沖縄県民でした。日本軍は兵力不足を補うため、沖縄県民を『根こそぎ動員』し、中等学校や師範学校などの10代の生徒まで戦場に動員しました。那覇市安里にあった『沖縄師範学校女子部』と『沖縄県立第一高等女学校』からも、生徒・教師240名が看護要員として動員され、そのうち136名が死亡しました。2校の愛称が『ひめゆり』であったことから、戦後、彼女たちは『ひめゆり学徒隊』と呼ばれるようになりました」(ひめゆり平和祈念資料館HP・「ひめゆり学徒隊の沖縄戦」より)
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「日本軍によって学徒が死に、米軍によって沖縄は解放された。そうした文脈で書けば犠牲者は救われない」。
議員はこのようにいうが、日本軍なかでも指揮をとった司令部は、沖縄の人びとを戦場へと駆り立て、自陣の陣地づくりや弾薬運び、負傷した兵士の看護などをさせた。その一方で、日米の主戦場となった沖縄には、日本軍によって1万人を超えるといわれる朝鮮人が連れてこられたあげく、軍夫として働かされ、「慰安婦」という名のもとに性奴隷を強いられた。
沖縄戦をめぐる被害の全容は、日本政府の調査が実施されていないことから正確な数は不明だが、沖縄県福祉・援護課の推定数では戦死者20万656人。ここに先述の朝鮮人は含まれていない。また同司令部が、敗北が目に見えていたにもかかわらず沖縄の地で「戦略持久戦」を続けたことで、犠牲者数は拡大の一途をたどった。
さかのぼれば、沖縄の歴史は、1609年の薩摩藩による琉球侵攻、1879年の明治政府による武力をつかった「琉球処分」(琉球藩の廃止と置県を布告)、その後の1945年の沖縄戦を経て、27年に及ぶ米国の統治下で米軍基地が築かれた。日本復帰後の現在も、日本の約7割を占める米軍施設を担わされている。最近では「台湾有事」に備えるといい、自衛隊配備の強化も進む。
改めて整理しよう。議員は、沖縄戦の実相に関する碑の説明版で「日本軍によって戦争がはじまり学徒が死んだ。米軍によって沖縄は解放された」という「歴史の書き換え」を認識した。つまりは、説明版にある沖縄戦の解釈は誤りだとの主張だ。しかし、碑のある、ひめゆり平和祈念資料館の関係者は、そんな説明は存在しないと一切否定する。
そうすると残る問題は、議員の沖縄戦に関する認識だ。議員はなぜ「歴史の書き換え」と認識したのか。ヒントとなるのは、シンポのこの発言。
「(沖縄では)地上戦の解釈を含めてかなりむちゃくちゃな教育のされ方をしている」。
ここからわかるのは、日米の責任を指摘する沖縄の歴史教育の否定であり、日本軍による戦争責任の否定ともいえる。
「沖縄戦の最大の特徴は、正規軍人より一般住民の犠牲者数がはるかに多かったことである。戦闘の激化に伴い、米英軍の無差別砲爆撃による犠牲のほか、日本軍による住民の殺害が各地で発生した。
日本軍は沖縄住民をスパイ視して拷問や虐殺をしたり、壕追い出しや、米軍に探知されないために乳幼児の殺害などをおこなった。その他、食糧不足から住民の食糧を強奪したり、戦闘の足手まといを理由に、死を強要した。住民は逃げ場を失い、米軍に保護収容される者もいたが、食糧不足による餓死や追い込まれた住民同士の殺害などもおこり、まさに地獄の状況であった」(沖縄県HP「第32軍司令部壕説明板設置の経緯と考え方」内「4.『慰安婦問題』『住民虐殺』に対する県の見解」より)
今般の議員発言における一番の問題は、沖縄の歴史教育を「自虐史観」とみなし日本の戦争加害の事実を否定・歪曲していること、そのうえで「正しい歴史観を持ちましょう」「日本人があの戦争をもう一度総括し、自分の歴史を取り戻そう」などと言って、歴史修正を公に促している点にある。
他方で同議員は、ヘイトスピーチ解消法の立法化に向けて、参議院法務委員会のメンバーとして尽力した一人。筆者が取材した19,21年の解消法施行から3年、5年の会見では、「ヘイトスピーチは恥ずべき行為」「立法に携わったものとして、ヘイトがなくなり被害者が堂々と生活できる環境をつくれるよう積極的に動いていきたい」と発言していた。
それを思うと、一人の思想として、差別反対と歴史修正が共存しうるのかという大きな疑問が残る。
(賢)