11年目に出会う未知の世界
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2015年、朝鮮新報が創刊70周年を迎える年の春に入社した。それから10年、新報創刊80年を迎える今年、新たな環境に身を置くこととなった。なんともキリの良い数字だが、入社から満10年、この2桁の数字が、今後果たすべき(と思っている)役割と比例して重く感じるのも事実。少しばかりプレッシャーも感じている。
新報記者として過ごしたこれまでを振り返ると、北海道から沖縄まで、日本各地の至る所に足を運んだ。国際大会に出場する祖国の選手へのインタビューは、今思い出しても胸が高鳴る貴重な経験だった。時には日本の国外で、新報記者として取材する機会に恵まれることも。人間力が求められる現代社会で、コミュニケーション力も、大事な場面での大胆さも、人脈も…記者活動をもって培うことができた。総じて本当に恵まれた職業だと思う。
ここで教訓をいくつか記しておきたい。
①事実確認はいつも1年目の気持ちですること。
入社1年目の頃、ウリハッキョの沿革に関する取材で、関係者である在日朝鮮人1世の親について語ってくれたあるオモニがいた。おぼつかない筆者に、優しく、丁寧に、答えてくれた。こんなにも協力的なものかと感動し印刷に回したのもつかの間、その1世の名前で誤字を出した。取材相手に応えられなかった情けなさと、悔しさで大泣きした。
②現場に入る時の事前調べは、相手への最低限の誠意。
3年目だったか、長崎出張で日本人被爆2世の方を取材した。その方は当時、朝鮮人被爆者の問題についても問題解決のために精力的に関わられていて、その関係で取材に出向いた。基本は調べた「つもり」だったが、筆者の質問が、まさか相手にとって無神経な、相手の尊厳を傷つけるかもしれない質問だったとは考えもしなかった。
というのも、何を質問してもまともに答えてくれず、しまいには「もう取材はいいです」と言われてしまったのだ。後日、知人の方から、「実はかれは被爆2世なんです」と聞いてハッとした。もちろん被爆2世であることを公言されていたわけではないので、あの時点で調べようがなかったかもしれない。けれど調べた「つもり」だったのは間違いなかった。そんな自分の至らなさを見つめるきっかけになった。
③1本の記事が状況を変える、その信念を持ち続けること。
新型コロナの感染拡大がはじまった2020年。世間は、未知のウイルスの登場に恐怖し、各地でマスク不足が相次いだ。そんななか、さいたま市が朝鮮学校(埼玉朝鮮初中級学校)は転売の可能性があるからマスクを配布しないという事態が起きた。その時学校関係者は、すぐに市役所へ抗議に出向いたのだが、そこに筆者は同行した。
ありえない地方自治体の対応に怒りがこみ上げ、抗議が行われている最中、この状況を早く伝えなくてはと必死にキーボードをたたいた。そして記事を公開すると、この知らせが著名人のもとにも届き、かのじょがXでリポストした。瞬く間に、朝鮮新報の記事が拡散され、その後他紙の報道が続いた。広く知れ渡ったさいたま市の差別的な対応に、同胞も、日本の人々も声をあげ、結果、市は不配布を撤回し謝罪。後日、朝鮮学校の子どもたちのもとにも、マスクが配布された。
他にもあげたらきりがないが、上にあげた3つは、いまも記者活動を続けながら最も教訓にしている。
朝鮮学校での高級部時代、舞踊部の指導をしてくれた先生が「謙遜」を教えてくれた。朝鮮大学校そして日本の大学院で過ごした学生時代は「自分」を多角的に知る期間だった。そして新報では、尊敬するかつての上司をはじめ、同僚たち、同胞たちが筆者の「役割」を教えてくれた。そんなたくさんの教えによって、いまの自分が成り立っている。
現在はというと、絶賛移行期のため、新報とイオ、それぞれの取材現場に出向き、社内では両部署の部屋を行ったり来たり、ドタバタな毎日だ。そんな忙しない日常のなか、新たに学ぶ雑誌編集の勝手は、未知の世界なだけあってワクワクする。入社11年目にして久々に感じる感覚だ。
今日のブログが、正式なイオデビューとなる。
これから本格的にはじまる雑誌記者としての生活。『月刊イオ』の可能性を少しでもひろげることに貢献したいと思う。そして、境遇を共にする同胞たちが、標とするような雑誌づくりに努めていきたい。(賢)