自分が「いた」という証
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7月末から8月頭にかけて帰省していた。滞在中、父に頼んで車を出してもらい、町はずれにある墓地へ連れていってもらった。そこの道路沿いに刻まれた思い出を久しぶりになぞりたかったからである。
あったあった。喜びのあまりその場で手を叩いてしまいそうになる。笑いながらカメラに収めた。
――話は中3の夏にさかのぼる。わが町にもほかの地域同様、夏祭りがあった。小さな町だが、一部の道路が歩行者天国になるなど、それなりに力を入れて催されていたものだ。屋台が並び、いくつものよさこいサークルや阿波踊りグループがチャンカチャンカと音を鳴らしながらやってくる。
お祭り会場にいる人たちはみな一様に浮かれていた。当然、私と友人らもそうだ。ただし自分たちの場合はその高揚を愚かな方向へ振り切ってしまったのである。
「〇〇とも話してたんだけど、夜に肝試しやんない? あそこのお墓で」
馬鹿者めが。そういう、人々が一つのことで盛り上がっている隙に他とは違う楽しみを探す俺ら、じゃないんだよ。そもそも墓地はそういう場所か? 亡くなった人への冒涜だ。
……と、当時はそんなことを思う成熟さも良識も一切なく、1秒くらいで「えーーー行きたい!」と叫んでいた。親に言うと反対されることは目に見えており、だからこそドキドキした。ひとまず全員家に帰り、日が暮れたら自転車で再集合することになった。
帰宅し、母には「また夜になったらお祭りのところで集まることになったから」と嘘をついてそそくさと2階に上がる。私の両親は自営業で飲食店をしており、基本的に下の階で仕事をしていたから細かな追及は逃れられた。
さて、約束の時間までどうするか。そこで考えたのは(念のため、万が一のときに身を守ってくれるものを持っていこう)ということだった。漫画やテレビの影響か、なんとなく「怖いものには塩が効く」というイメージがあったので、台所から食卓塩を持ってきて仏壇に供えた。
「何も起こりませんように」
正座したまま目をつぶり、手を合わせる。元来のびびりが顔をのぞかせはじめたが、「祖父は守ってくれるだろう」という自惚れと強引さで押し通す。チーンと仏具を鳴らし、食卓塩を小瓶ごと鞄に入れ、暗くなるのを待ってから出発した。
友人と4人、お祭り会場を離れ、ひとけのない方へない方へとワーキャー騒ぎながら自転車を飛ばす。そうして到着した町はずれの墓地。ここはおそらく山を切り開いたところに作られたもので、周囲には電灯もほとんどない。
圧倒的な静けさと暗さ。正直、私たちは一瞬にしてひるんでいた。その場全体から「正しくないことをしている」と突きつけられているようだった。嘘みたいだが小雨も降り始めていた。終始リーダーシップを発揮していた男子すら黙り込んでいた。
「ごめん、すごい怖いかも」
「いや、もう帰ろうか」
着いてから、体感にして1分も経っていない。もちろん私も怖かったが同時に(はぁ?)という気持ちもあった。せっかく来たのにこんなところで帰るのか? もったいなくないか!?
「大丈夫大丈夫! 明るい歌うたえばいいじゃん! ねー、行こうよ!」
そして私はとっさに頭に浮かんだ「おお牧場はみどり」を大声で歌い始めた。夜の墓地に響く「おお牧場はみどり」、その罰当たりなメロディがさらに恐怖心を煽ったのだろうか、友人たちは非情にも自転車の向きを変えてさっさと走り出していた。
「ねえ!!!!!!」
焦って友人を追うため自転車を飛ばす。この墓地は坂道を上がったところの、さらに丘の上にある。つまり帰りは下り坂だ。シャ――――――ッと加速する自転車で友人たちを追い抜き、そのまま道なりに左に折れようとした瞬間。
ハンドルを握る腕が不思議と動かず、ブレーキもきかず、私はスピードに乗ったまま数十メートル下のガードレールに激突した。直前で姿勢を崩したのか、なぜか左顔面から直にバンッッ!!!!!
ぶつかった勢いで私の身体は左顔面を起点にぐるんと一回転し、ガードレールの向こう側に投げ出された。
幸い、ガードレールの外側の坂をさらに転がり落ちることはなかったが、信じられないほど強い痛みに気が遠くなった。傍からどう見えていたのだろう、友人たちもはじめは軽く笑っていた。
ジンジンする左顔面を感じながら、頭の中では「どうしようどうしようどうしよう」という言葉だけが繰り返されていた。嘘をついて。こんなことになって。両親に狂ったように叱られる。
友人の手を借りてよろよろとガードレールを乗り越える。おそるおそる手で額のあたりを押さえると少し血がついた。この頃にはもう友人たちの顔にも笑みはなかった。
ありがたかったのはその後、友人たちも一緒に家まで来てくれたことだ。友人の前だったからか、それとも顔が尋常じゃないほどに腫れ始めていたからか、親にはまったく叱られなかった。すぐに病院へ向かった。
その日、入院をしたのだったか、処置だけ受けて帰ってきたのだったか。覚えているのは「あと少しずれていたら失明してましたよ」という医師の言葉だけだ。あと少しで取り返しのつかないことになっていたかもしれないと考えると改めてぞっとした。
何も言わずともさすがに打ちのめされただろうという酌量があったのかもしれない。落ち着いてからも、両親からはガツンと𠮟られることはなかった。ただ母からは「夜にどこか出かけるって言ったとき、なんか様子がおかしいと思ったんだよね。絶対なんか違うんじゃないかって」と言われた。それでも信じて送り出してくれたらしい。申し訳なさが膨らんだ。
案の定、顔は信じられないくらいに腫れた。事態が過ぎるとまた調子に乗り始めた私は、画用紙を切って三角形を作り、額につけてお岩さんの真似をした。さらにそれをインスタントカメラで撮影した。
後日、現像して笑っていたのは私だけで、両親と弟は引いていたし、祖母に見つかってさすがに怒られ、写真はすべて燃やされた。せめて一枚くらいは残っていてほしかった…と懲りずに思っているあたり、成長していない。
あの時の痛みを思い出すにつけ、あれで済んだのはやっぱり食卓塩(祖父)のおかげだったかもしれないとも考える。私が生まれる前に亡くなってしまった祖父。かれはこんな孫をどう思っているのか。若気の至りが招いた強烈な出来事を、こうして自ら語り草にまでしている孫。
罰当たりついでにもう一つ言うと、愛着のある町に「自分がかつていた証」が残っていることがうれしくもあるのだ。(理)