「4.24の衝撃と傷 体験者の記憶から」~呉亨鎮さんの訃報に接して
広告
つい先日、総聯副議長、在日朝鮮人歴史研究所所長などを歴任した呉亨鎮さんの訃報に接した。
仕事上で面識を得たのは、呉さんが2004年に創設された在日朝鮮人歴史研究所の所長についてからのこと。私が2010年にイオ編集部に異動になってからは、当時、同研究所の顧問だった本人へのインタビュー取材はもちろん、在日朝鮮人の歴史と関連した各種資料の提供などいろいろとご協力をいただいた。
最後に誌面にご登場いただいたのは、2018年4月号に掲載された4.24教育闘争70周年に際したインタビュー記事。呉さんが兵庫県内の朝鮮学校に通う一児童だった当時を回顧している。
呉さんの逝去に際して、記事を再掲する。
故人の冥福をお祈りします。(相)
4.24の衝撃と傷―体験者の記憶から
4・24教育闘争から70年が経とうとしている。朝鮮学校が未だ逆境にさらされている中、私たちが70年前の歴史から学べることはなんだろうか。学校閉鎖令と4・24教育闘争を一児童として体験した呉亨鎮さん(79、在日朝鮮人歴史研究所顧問)に話を聞いた。
呉亨鎮さんは忠清北道で生まれ、4歳になる頃に父親を頼って母親と渡日。名古屋、京都を経て兵庫県の西脇で祖国解放を迎え、1946年2月に開校した朝連多可初等学院(後に西脇朝鮮初級学校に改称)に日本の小学校から転校した。そこで、ぼろ学校ではあったが民族差別にさらされることのない楽しい学校生活を送っていたが―。
10歳で見た「悪夢」
「初級部4年のある日、学校に日本の武装警官数十人が押しかけた。教員と児童を教室から次々に追い出し、黒板や机、いすなど所構わず『使用禁止』の張り紙を貼り、入り口に×字型の板を釘付けていく。一体、何が起きているか分からずパニック状態だった。目の前で、抵抗する教員や駆けつけた保護者たちが警棒で殴られ、血を流し、手錠をはめられトラックで連れて行かれる。この世の地獄を見ているようだった。泣きながら『先生を帰せー!』と叫ぶことしか出来なかった」。48、49年の学校閉鎖令後、呉さんが体験したことだ。
校舎と教員を失った子どもたちは、山や河原でいわゆる「青空学校」を開き、上級生が下級生を教えた。「学校をなくすまいと必死だったが、雨が降ればおしまい。正常な授業や勉強は出来なかった」。
政治のことなど何も分からなかった子どもたちは、大人たちと一緒に閉鎖令に反対するデモや集会、署名活動などに参加する中で、「閉鎖令」を指示した張本人がアメリカ占領軍であることを聞かされたという。「それまで、アメリカ軍はソ連軍と共に朝鮮を解放に導いたありがたい存在だと思っていた。アメリカ進駐軍は、私たちが『サンキュー!』『アイラビュー!』とか言うとチューインガムやチョコレートを投げてくる。かれらは絶対にアジア人とは手を触れようとしないんですね。当時はそんなのも分からずもらって喜んでいた。その米軍が、ジープに乗って閉鎖令のもと弾圧に来た警官たちを監視している姿が見えた時も、その意味をまだ分からなかった」。
「マッカーサー元帥へ」ハガキを送った児童たち
総聯の活動家として、2004年からは在日朝鮮人歴史研究所で活動する呉さんだが、05年の夏、思いがけない出来事が起きる。弾圧を受けた当時の子どもたちがGHQのマッカーサーやアイケルバーガーに送ったハガキが、アメリカの国立公文書館で発見されたことをインターネットの記事で知った呉さん。是非見てみたいと、ハガキのコピーを持っていた和光大学講師で映画監督の呉徳洙さんと世田谷の喫茶店で会った。ハガキを一枚一枚めくっている途中、呉さんは手を止め、目を疑った。「鳥肌が立った。まさかと思ったが、もう一度よく見ると、間違いなく『呉亨鎮』と私の名前が書いてある。完全に忘れていた記憶が、その瞬間、走馬燈のように頭をよぎり、気付けば涙をボトボト流していた」。住所欄には「東京都内 連合軍総司令部内」、宛名は「マッカーサー元帥閣下」とあり、裏面には朝鮮語でこのようなことが書かれていた。「元帥様、私たちの先生がまだ釈放されていません。先生を早く釈放してください。私たちは勉強を頑張っています」。
「先生に教わりながら書いた、生まれて初めての手紙。その相手が外ならぬ、朝鮮学校弾圧を命令したマッカーサーだった。先生が『君たちの気持ちが届けば、きっと返事が来る』と期待させるもんだから、みんな一生懸命書いて返事を心待ちにしたんだけれど、来るはずもない。そのうち、ハガキのことなんてすっかり忘れてしまった」
見つかったハガキは約300余通にものぼり、兵庫だけでなく大阪、山口、東京、岐阜、千葉など各地から送られていた。呉さんの同級生、友人の名前もあった。「送り主に歴史を返してあげたい」という思いで書いた人を捜したが、すでに亡くなっている人や帰国した人、行き先がわからない人が多かった。
この体験から、4・24教育闘争の情景がみるみる蘇ったという呉さん。80歳を迎える今でも当時のことが記憶の片隅に残っているのは、それが「あまりにショックでトラウマとなっていた」からだろう。「このハガキは、私が4・24教育闘争を体験したことの証明書とも言える」。
子どもたちが負う傷、70年後の今も
閉鎖令によって学校を奪われた後、保護者の判断でやむをえず日本の学校に行った子どもたちもいた。事件から時が経ち、そんな同級生の話を聞く機会があったそうだ。「『私たちが日本の学校でどんなに悲しく、悔しい思いをしたか、孤独だったか、その気持ちが分かるか?』。かれらが私にそう言うんです。ショックを受けた。聞いてみると、『君が代』の斉唱や朝鮮学校とは違う歴史教育などに葛藤しただけでなく、朝鮮学校からの転校生に向けられた日本の教師と児童たちの目は冷ややかで、時に悪意ある好奇心の的となり、傷つけられた。そればかりか、日本の学校に転校したという子どもなりの呵責にさいなまれ、日本の学校を拒み続けた朝鮮学校生たちとも距離を置いた。帰宅路でばったり会わぬよう、遠回りをして帰っていたという。日本の学校に行った朝鮮の子どもたちの苦悩を、それまで知らなかったことが申し訳なかった」。
呉さんはこう繰り返す。「私たちはあの頃、純粋な気持ちの子どもたちが絶対にしてはいけない地獄のような経験をした」。自身が書いたハガキを見た友人たちも、忘れられない記憶を思い出し、「怖かった」「悔しかった」と涙を流したという。「朝鮮学校に残った児童もそうでない児童も、みなが試練の日々を強いられた。4・24の弾圧は、そうやってすべての朝鮮の子どもたちを傷つけた。その現状が70年過ぎた今も、高校無償化闘争に見られるようにまったく変わっていないことに胸が痛み、腹立たしくなる」。
当時、朝鮮学校の弾圧に反対する同胞たちの闘いは全国で繰り広げられた。集会や署名などの活動に参加した総数は100万3000余人、逮捕されたのは3000余人、負傷者数150余人、死亡者数2人、韓国に強制送還された人も多数おり、規模の大きさが見て取れる。
「言葉、歴史、文化を奪われた36年間の植民地統治、祖国解放後73年に及ぶ在日朝鮮人への弾圧―。朝鮮学校はこの100年の抵抗の歴史を物語っている。高校無償化差別をはじめ、ひとつの延長線でつながっている民族教育への弾圧に反対し続け、勝ち抜くこと、4・24の闘争伝統、闘争精神を後世に伝えることが私の目標だ」
【4.24教育闘争とは】
1948~49年、アメリカ占領軍とその支配下にあった日本政府によって各地で行われた朝鮮学校弾圧と、在日朝鮮人たちによる抵抗運動。一度目の弾圧が行われた48年、抗議運動の結果、4月24日に朝鮮人代表と兵庫県知事の交渉が実現し、「学校閉鎖令」が撤回。この日付を取って、「4.24教育闘争」「4.24阪神教育闘争」と呼ばれている。大阪では抗議運動に加わっていた16歳の少年が射殺され、朝連兵庫県本部委員長が出獄直後に死亡するなど多くの同胞が死亡・重軽傷を負った。