東日本大震災と新潟・福島ハッキョの合同生活
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先週3月11日は、東日本大震災から12年ということで、テレビでも関連番組がたくさん放送されていた。
これまで3月11日を前後して、日刊イオでそれに関する文章をアップしてきた。今日のブログでも震災に関連する内容を書きたいと思う。
まずは当時のイオ編集部の様子について。
3月9日の日刊イオで(瑛)さんが「33年ぶりの朝高卒業式」という文章をアップし「わが家も12年の月日をウリハッキョで過ごした男子が朝高を卒業」と書いている。
震災が起こった時に初級部に入学したのかと改めて思い出した。当時、(瑛)さんは長期休暇を取っていた時だった。
震災発生にともない、月刊イオは5月号、6月号と2号続けて震災の特集を組んだ。起こってすぐ(相)さんに福島に行ってもらった。イオ編集部に入ったばかりの(淑)さんは宮城に行ってもらった。非常に悩んだ末の決定だった。(里)さんには一番遠い岩手に行ってもらった。

2011年12月3日に新潟朝鮮初中級学校で行われた新潟ハッキョと福島ハッキョとの合同学芸会
東日本大震災の思い出としては、福島で原発事故が発生し、福島朝鮮初中級学校の児童・生徒が新潟朝鮮初中級学校に避難する形で合同生活を送ったことが挙げられる。学校全体で避難するという壮大な事業だった。
合同生活は2011年5月15日に始まり12月3日の合同学芸会まで、約7ヵ月にわたった。
私は12月1日に新潟に入り、3日間学校で寝泊まりして取材した。その内容は日刊イオで3日連続、3回にわたり、オモニたち編、先生編、子どもたち編としてアップしている。短くない取材活動の中でも思い出深いものの一つとなっている。
新潟・福島ハッキョ合同生活とオモニたち
先週10日の(淑)さんの日刊イオ「17年ぶりの新潟へ」の中で、「18年には県内唯一の新潟朝鮮初中級学校が休校」と書かれてある。単純に考えると当時、初級部1年だった子どもが初級部を卒業するとともに休校となったということだ。非常に淋しい。
東日本大震災の発生時、私は直接現地で取材をすることはなかったけれど、様々な思い出がある。
また、機会があれば書きたいと思う。(k)