「昔、ここで朝鮮人が殺された」
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2月の某日、千葉県北西部の八千代市高津。
韓国の市民グループのメンバーなどが参加する関東大震災朝鮮人虐殺関連のフィールドワークに同行して、私は「なぎの原」と呼ばれる小さな空き地にいた。空き地を囲むようにして家が建ち並んでいる、どこにでもあるような住宅街の一角の風景。
1923年9月1日に起こった関東大震災の直後、9月7日から9日にかけて、ここで地域住民によって6人の朝鮮人が殺され、埋められた。
殺された6人の朝鮮人は、震災後、かつて習志野俘虜収容所だった施設に軍によって護送され、収容された人びとだった。軍はひそかに収容所周辺の村に朝鮮人を下げ渡し、住民たちに殺させたのだ。
当時の高津地域の住民が残した日記には朝鮮人虐殺のことが記されている。『いわれなく殺された人びと―関東大震災と朝鮮人』(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会編)などの書籍から一部を引用する。
「…午后四時頃、バラック(筆者注:習志野収容所跡)から鮮人を呉れるから取りに来いと知らせが有った」
「…朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く 九時頃に至り二人貰ってくる 都合五人 (ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて仕舞ふ 皆労(つか)れたらしく皆其此(そこ)に寝て居る 夜になるとまた各持場の警戒線に付く」
地域ではひっそりと慰霊が続けられていた。習志野市の中学校の郷土史クラブの子どもたちによる聞き取り調査によって事件が明らかにされたのが1970年代のこと。その過程で、前述の日記も住民から学校に持ち込まれたという。
78年には船橋市を中心に朝鮮人虐殺の歴史を掘り起こす市民グループ「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」が結成された。
それから20数年後の98年9月、実行委員会、地元住民らによってなぎの原で遺骨の発掘が行われた。
遺骨発掘には地元住民から、記録を残さない、写真も撮らない、メディアにも知らせないという条件がついた。発掘の結果、こぶしの木の周辺から6体の遺骨が見つかった。
検視の結果、死後数十年が経っており、当時のものと確認された。遺骨は火葬されたのち、なぎの原から徒歩5分ほどの場所にある高津観音寺に納められた。
翌99年には寺の境内に「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」が建立された。実行委員会は慰霊碑の裏に事件の概要を刻んでほしいと要望したが、住民側の合意を得られず実現されなかった。
今回、現場を訪れたが、遺体の発掘場所に立っていたという木はすでになかった。何度もここを訪れているという人によると、数年前まではあったという。住民によって伐採されたのだろうか。
なぎの原でのフィールドワークを終え、遺骨が眠る観音寺へ向かう。
その道すがら、買い物袋を手から下げた老人がわれわれ一行に近づいてきた。一目見て私たち一行がどのような目的でここに来たグループなのかわかったのだろう。「母親から聞いた話だ」と言って、ひそひそ声でこう話した。
昔、ここで朝鮮人が殺された。死体を埋めた木の下は血で真っ赤に染まった。自分の母親が幼いころ、その光景を目撃した―。
「あんまり大きな声じゃ言えないんだけどね」
老人はそう言うと、私たちのもとを去っていった。
関東大震災時の朝鮮人虐殺から今年で100年。1世紀前の歴史に思いをはせてみても、「流言を信じた自警団によって朝鮮人が多数殺された」という教科書的な説明だけでは当時の状況を想像しづらい。しかし、老人の言葉を聞いて、何の変哲もない空き地が100年の時を超えて凄惨な虐殺現場として自分の目の前に立ち上がってきた。
本誌では4月号から始まる連載を含め、関東大震災朝鮮人虐殺100年関連でさまざまな企画を構想中だ。そのヒントになれば、と参加したフィールドワークだったが、予想以上に多くの示唆や気づきを与えてくれた。(相)