車椅子の母に付き添って
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昨年の晩秋、足の不自由な母に付き添って旅行へ出かけた。
私の家族と妹の家族、そして母の7人による1泊2日の小旅行。
78歳になる母は数年前から病気で足が不自由になり、一人では外出もままならない。家の近くなら誰かが付き添って手を引いてあげればいいのだが、鉄道を利用した遠出となるとそうもいかない。介護保険を使って車椅子をレンタルすることにした。
旅行前日になって私の息子(3歳)が急に熱を出すという「幼児あるある」の洗礼を受け、妻と息子は不参加に。母の介助をする人は必ずいないといけないので、私はそのまま参加することになった。
車椅子の母に付き添い1泊2日を過ごす中で、否が応でもバリアフリーの状況に目が向くことになった。
駅、商業施設、観光地、ホテル、行く先々でまず車椅子の動線を確認し、エレベーターを探した。2日間ほとんど階段を使わないという経験は初めてだったかもしれない。
あらためて見ると、思ったよりバリアフリーが進んでいるという印象を受ける一方、あらゆる場面で十分かと問われるとそうでもない。わずかな段差や隙間が気になる。私の場合なら無視できるが、車椅子だとこれが大きな障害として立ちはだかる。
たとえば、ホームと電車の間にある隙間や段差。車椅子ユーザーはサポートなしの単独で電車に乗り降りすることはむずかしいだろう。あれっ、券売機で切符を買うのって案外大変…。観光地での土産物ショップ―。車椅子を押しながら、「あれ取って」「これ取って」という母のリクエストに応える。私なら、店内を自由に見て回りながら、欲しいものや興味をひかれたものがあれば、その商品を手に取るが、車椅子の人は多くの場合、そうはいかない。手が届かないのだ。思い通りに買い物ができない、これは大きなストレスだ。
マジョリティとは、「気づかずにいられる人、気にしないでいられる人である」と定義したのは、昨年急逝した社会学者のケイン樹里安さんだった。「なにかしんどい状況とか差別が目の前にあるときに、それに気づかずにいられる人とか、気にしないでいられる人とか、その場からサッと立ち去れる人たち。気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられることは、マジョリティの持つ特権である」と。
誰が特権を持つのかは状況によって変わる。ある場面ではマイノリティでも、別の場面ではマジョリティになることだってある。
目の前に止まった電車にいつでもすぐに乗れること、エレベーターやエスカレーターのないお店に入れること、ファミレスのドリンクバーで自由に飲み物を選び、コップに注げること、通路が狭いスーパーマーケットで買い物できること…。私は、健常者のために便利にデザインされた世界で、自分の特権に気づかずに暮らしてきた。それを当然のことだと思い、そんな世界のあり方に疑問を抱くこともなく―。そのことにあらためて気づかされた。(相)