「リムジンガン」、60年の物語
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新型コロナウイルスの感染の影響を受け、ご自宅で映画や歌を楽しんでいる方も多いと思います。
今年は、日本でもよく知られる朝鮮の歌「リムジンガン(臨津江、림진강)」が生まれて60年になる年です。
朝鮮民主主義人民共和国の音楽家が作詞作曲したこの曲、最近でいうと映画「パッチギ」(井筒和幸監督、2004年)で知られるようになり、日本社会で広く親しまれるようになりました。しかし、日本に普及された当時は紆余曲折を辿りました。
月刊イオ2020年3月号に掲載された李喆雨さん(元在日本朝鮮文学芸術家同盟音楽部長)のエッセイには、60年前の状況が描かれています。大切な証言なので全文を紹介します。お楽しみください。(瑛)
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離散家族の思い、日本から朝鮮全土へ~「臨津江」、60年の物語
李喆雨
「ザ・フォーク・クルセダーズ」の発売中止騒動
名曲「イムジン河」の楽譜が在日同胞社会に伝わったのは、今から60年前の1960年のことでした。「새노래집(新しい歌集)第3集」(編集:在日本朝鮮文学芸術家同盟[以下、文芸同]、発行:朝鮮青年社、1960年)に掲載されました。奇しくも私が朝鮮の音楽に携わった年と重なります。
この歌を日本で有名にしたのは、1967年のザ・フォーク・クルセダーズの「発売中止騒動」でしたが、当時フォーク・クルセダーズは「帰って来たヨッパライ」という歌が大ヒットし、その第2弾として「イムジン河」をリリースしていました。
東芝音工ではこの歌を“朝鮮民謡”として発売しようとしていました。民謡だと作詞・作曲者を発表しなくてもよいということでした。これに対して在日本朝鮮人総聯合会(総聯)では、原産国名と作詞・作曲者を明記して発売してほしいと、東芝音工に申し入れをしましたが、東芝側は交渉途中に発売中止を公表してしまいました。マスコミも「総聯が圧力をかけた」ためとか、「物言い」を付けたためと報道され、そのままのイメージで定着してしまったのです。これは事実と異なります。
実は、ザ・フォーク・クルセダーズが当時歌っていた「イムジン河」は、原曲と違い単純なメロディのミスが4ヵ所ありました。しかし、そのことが伝わらないままにレコードと楽譜が定着してしまい、いまだに二つのバージョンが存在しているのも、このようないきさつからです。
そこで、原曲通りの正調版をつくろうということで、当時私が音楽部長を務めていた文芸同で翻訳し、当時早稲田の学生フォークグループであるフォーシュリークによるレコーディングで録音し、大阪労音系のユニゾン音楽出版からリリースしました。しかし、当時のレコード会社では販売を取り扱ってもらえず、労音例会などでの直接販売という方法で発売しました。
作詞・作曲者は離散家族、70年代には放送禁止に
東芝音工が発売を見合わせた背景には、当時の情勢があったと思います。1964年の東京オリンピックでは朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)の国名をIOCで正式に認めないなどの理由から朝鮮の代表団が参加しなかったということもありました。1965年には日韓条約が批准されますが、朝鮮とは国交もないという複雑な国際状況の中で、一企業が発売するには荷が重かったと思います。
この歌の原産国である朝鮮では、57年8月「朝鮮音楽」という音楽雑誌に発表されました。作詞は朴世永さんで朝鮮の「愛国歌」を作詞したほどの有名な詩人です。作曲は新進の高宗煥さんでした。
私がこの歌を初めて聴いたのは、60年代のある日の平壌放送でした。ソプラノ歌手・柳銀京さんの歌で、「わが故郷南の地 帰りたくとも帰れない」という歌詞が大変印象的でしたが、メロディはあまり印象に残りませんでした。当時は、離散した母を想う当時ソプラノ曲としては「椿の花」(作詞:朴世永、作曲:李建雨)がよく知られ、舞台でも歌われていました。
この歌の作詞・作曲者ともに、南の出身で離散家族の痛みを身をもって経験した人たちなので、唯一北から南の38度線を流れるイムジン河に、家族と生き別れた人たちの悲痛な思いを託した内容になったのでしょう。
一方、在日の社会では60年代以降、当時朝鮮中央芸術団(金剛山歌劇団の前身)で主にソプラノの歌手たちが「椿の花」や「イムジン河」を舞台で歌っていましたし、文芸同や朝鮮歌舞団、民族学校でも知る人ぞ知る歌でした。このように、在日の社会ではずっと歌われてきた「イムジン河」でしたが、70年代には日本で「要注意歌謡曲」になります(※)。理由は、「国際親善条項に反する」という政治的な理由でした。マスコミや音楽業界も自粛し放送を通じては歌えなくなってしまいます。
そこで、歌詞がだめなら演奏だけでもと、金洪才さんの指揮によるオーケストラがこの歌を取りあげました。日本中のオーケストラはもちろん、南・北のオケ、海外のオケでも演奏し好評を博しました。
松山猛さんの名訳と、映画「パッチギ」
「イムジン河」が好評を博したといえば、映画「パッチギ」(監督・井筒和幸/2004年)があります。舞台は1968年の京都。京都の高校に通う康介が京都朝鮮学校に通うキョンジャに一目惚れし、康介はキョンジャ と心を通わせたいと願い、キョンジャが練習していた「イムジン河」をギターで練習します。映画はこの2人の交流を軸に、朝鮮学校生と日本の高校生との対立、「イムジン河」に込められた南北分断の悲しみ、在日社会と日本の社会の接点を描き話題になりました。
この歌を再びよみがえらせたのはキム・ヨンジャさんでした。2001年のNHK「紅白歌合戦」で初めて朝鮮の歌を歌い話題になりましたし、朝鮮側の要請により、01年と02年に平壌でコンサートを行い、そのテレビ中継を通じて「イムジン河」は全土に響き渡りました。
日本でメジャーではない朝鮮の音楽のなかで、「イムジン河」が団塊の世代をはじめとした日本人に愛唱されたのは、多様な訳詞のおかげでもありました。なかでも、キム・ヨンジャが歌う吉岡治さんの訳詞や松山猛さんの訳詞がよかったと思います。
松山猛さんの訳で「誰が祖国を二つに分けたの、誰が祖国を二つにしたの」というフレーズがあります。「イムジン河 空とおく 虹よかかっておくれ」と、日本人の訳詞で朝鮮半島の統一を呼びかけた意味は大きかったと思います。
この歌は朝鮮で生まれましたが、この歌を日本で育み、発信し続けたのは在日の社会と日本の歌手によるものだと思います。それが北から南にも影響し、今や朝鮮全土に広がり歌われています。
このひとつの歌の過程を通して、朝鮮半島が一日も早く統一してほしいという在日同胞と、それを応援する日本の皆さんの心情がひしひしと伝わってくるような気がしています。
(リ・チョルウ/音楽プロデューサー)
(※)「要注意歌謡曲」は、民放連(日本民間放送連盟)が1959年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」というシステムに由来する。各々の民放放送局が独自に判断するには、あまりに多くの曲が作られるので、差別用語など、おおよその判断目安を定めていた。1987年ごろに消滅したとされる。