「シングルストーリー」にされないために
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『在日コリアン詩選集』を図書館で借りた。全506ページ。「解放前」と「解放後」で章を分け、1916年から2004年までに発表された作品を一挙紹介している。まだ端から端まですべて読めたわけではないが、パラパラとめくって目についた作品を読むだけでも興味深い。
詩というと難しいイメージがあったが、そんなことはなかった。もちろん中には難解だったり、自分の知識が足らず理解が追いつかないものもある。しかし固有の経験、気持ちが綴られて、個人の生が浮かび上がってくる作品もとても多かった。いくつか紹介したい。
地理の時間
先生は一息で黒板にウサギを描かれた/みなさん わたし達の国です/長い耳に沿って豆満江は流れ/うなじのこのくぼみは元山/鼻先には平壌 ソウルはお腹/まるい尻尾の釜山港 外国船が行き交います/大きな声で復誦しましょう(李美子「地理の時間」より一部抜粋)
母(オモニ)
あなたが綺麗でなくてはならないと/誰が決めたのか あなたはいつも強く/いつも素晴らしいなんていったい誰が決めたのか//ガニ股歩きのチョゴリの後姿に/まっ黒に陽焼けしたキムチの匂い/を恥じる子を悲しむことはない/怒鳴ることでしか愛をつたえられない/ささくれだった指のごつごつの不器用さ/を憎む子を恐れることはない(趙南哲「母」より一部抜粋)
霧氷が白くきらめいて
わたしの心の樹に霧氷が白くきらめいている/日本国籍だから/時折 痛くなったり腫れたりする顎の治療を/日本名で受けている 口腔外科で/アベリアの花のように若いU先生は/わたしを/まるまるの日本人だと思い込んでいるから/さり気なく 接してくれるのだろうか/わたしには 李や金や朴といった苗字がない/父が三十数年前に日本国に気化したのは/母と結ばれたからに他ならない/以来 同胞とは溝ができてしまったようだ(萩ルイ子「霧氷が白くきらめいて」より一部抜粋)
「在日コリアン」と一口に言っても、育った背景やアイデンティティは様々だ。けれど日本社会にはそうした多様さが伝わっていないような気がする。
少し前、知り合った日本の方とお喋りしているとき、「自分は在日のことを全然知らなくて、今してくれたような話も初めて聞いた」と言われたので、「今日話したのは(朝鮮学校のことなど)私個人の経験で、もっと本当に色んな背景を持った人がいる。そもそも自称が“在日朝鮮人”の人もいれば、“在日コリアン”とか“在日韓国人”とか、背景によっては日本で生まれ育っても“韓国人”と自分を呼ぶ人にも会ったことがある。日本国籍やその他の国のルーツがある人もいるし…」と長々説明すると、「そういうのもっと知りたいですね」と返してくれた。
ナイジェリア出身の作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさんは講演で、「シングルストーリーの危険性」について話している。シングルストーリーとは、唯一の見方や限定的な情報に収束されてしまう物語のことだ。単純で分かりやすい情報や物語を全体のように捉えてしまうと、対象への固定観念、偏見が生まれやすくなる。
※以下から講演の視聴が可能。字幕ボタンを押せば日本語も出てきます。
講演では、当事者側がいくら固有で多様な語りをしようとしても、大国側、いわゆる「先進国」の人々によって都合よく語り直され、歪曲され、ステレオタイプの再生産に利用される危険性についても話している。
日本社会も同様で、さすがに「シングル」とまではいかずとも、在日コリアンと呼ばれる人々に対して、いくつかの固定されたイメージしかないのではないか。
とても些細な経験、考え、それらが積み重なっていくことによって、その像を広げていくことができるし、日本の人々と出会う接点も増えていくかもしれない。
朝鮮新報もイオも、そういう語りを記録する作業をしているし、詩というのも一つ、個々の人生に接近できる表現のひとつだなと感じた。『在日コリアン詩選集』の刊行から20年以上が経っている。残念ながら続編は出ていない。共著者のお一人である佐川亜紀さんに2005年以降の流れについて書いていただく短期連載を企画できないかなと考えている最中だ。(理)








