言葉に支配されないために
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先日、近所のクリーニング屋さんへ行ったところ、店員さんが私の顔を見た瞬間に、預けていたスーツを取り出してくれたことがあった。(ん?)と思いつつもお会計を済ませ、お店を出てからやはり(ん?)と立ち止まった。
私がそのお店に行くのは2~3ヵ月に一度。期間がもっとあくこともある。どうしてレシートも見ず、引き取りに来た洋服が顔だけで分かったのだろう。店員さんの記憶力がすごいのか、思っているより自分の見た目が特徴的なのか、それともただの偶然だったのか……。
帰り道、ぽろっと「悪いことはできないな」という言葉が口をついた。このとき本当に声に出して独り言をいってしまったのだが、自分が発した言葉にふと疑問を持った。私は普段から、「隙あらば悪いことをしよう」と考えているわけではない。なのになんでそんなことを思ってしまったんだろう。
結論から言うと、世間でよく使われる常套句や言い回しが、無意識のうちに自分の中にインプットされているからだと思う。「悪いことはできない」という言い回しは、人間関係が意外と狭いことを実感したときなどによく使われる表現だと思うのだが、そのパターンと冒頭の出来事が反応して、条件反射のように出力されてしまったのではないか。自分の実感が出てくる直前に、実は手前のところで言ってしまっているというか。少し大げさに言うと、言葉に支配されているというか。
そんなことを考えながら過ごしていたからだろう。日常の中でも、実感は伴っていないのに無意識のうちに特定の言葉をつい言ってしまう、というような場面が少なくないことに気がついた。例えば、コーヒーから最初に連想する言葉として一番挙げられやすいのは「苦み」とか「コク」ではないかと思う。実際、私もコーヒーを飲む「前」になんとなくすでに苦みを想定していた、というような瞬間がありハッとしたことがある。
自分の言葉でよくよく考え直してみると、コーヒーには案外「苦み」という言葉にぴったりとは収まらない、「香り豊かさ」とか、淹れ具合によっては「甘み」とか、もっと別の多様な味の表現がある。飲む前から一般的なイメージによりかかっていると、本来受け取れるはずの感覚を、知らず知らずのうちに弱めてしまうかもしれない。
また他の例を挙げるなら、TVやYouTube、本やSNSでよく見聞きする「これは日本人が大好きな味ですよね」「日本人に生まれて良かった!」というような言葉。日本で愛される観光地の風景、日本に根づいて発展してきた文化や料理などを指して使われることが多い。こうした言葉も、常套句化しているからこそ条件反射的に出てくるのだろうと思う。日本で生まれたり暮らしているけれど「日本人」ではないたくさんの人が、すでにどこの空間でも同じように日本の文化に親しんでいるにもかかわらず。
もちろん、「日本人」という言葉を使わないでと言いたいのではない。ただ、その言葉が、思っているよりも無意識に口をついていないですかという話だ。本当はそんなつもりなんてないのに、たまたま言い方ひとつで、場合によっては多様なルーツを持つ人を排除したり、無視することにつながってしまうこともある。それは残念なことだ。
「北朝鮮」という言葉にも、憎しみや恐れ、忌避感、得体の知れなさといった、たくさんのネガティブなイメージが積み重なっている。「自分はフラットな視点を持っている」と自認している人でも、「北朝鮮」という言葉を使うことで、知らず知らずのうちにネガティブなイメージを自分の内側に取り込んでしまうということはないだろうか。
排外主義国家、そして排外主義者たちが意図的に使ってきた「北朝鮮」。そこまで極端な思想を持っておらず、日ごろ歴史や社会について学んでいるとしても、まったく同じ言葉をなぞることによって、いつの間にか一部の文脈は許容するようになったり、ニュアンスやスタンスが混じってしまったり、「ここは仕方ない」と境界線があいまいになったり、差別する側によって作られた、乗る必要のない論調に乗ってしまったり。同じ言葉を使うことは、時にそういう事態を招きはしないか?
実際、このようなトピックで日本の友人と話をしたことがある。その人は日本の排外主義や歴史修正主義に対する問題意識を持っており、一緒に「4.23アクション」に行ったこともある。
※4.23アクション~在日本朝鮮人人権協会の性差別撤廃部会が毎年主催している行動。日本政府が否定し続けている日本軍性奴隷制問題について今いちど声を上げようと2015年から始まった
会話の中で、その人が言った。「北朝鮮がミサイルで日本を狙っているとか、Jアラートとか、そういうのおかしいなって思うんです。日本のニュースを真に受けてもいいのかなって」。せっかくそのような思いを持っているなら…!と前置きしたうえで、私は上記のような意見を伝えた。その場では「私は北朝鮮という言葉を差別的な意図で使ってはいないので…」というふうに返され、その後も何度か「北朝鮮」と言っていたので(そうか…)とそれ以上強調することはしなかった。
しかし後日、また別のイベントで会った時にその人は「北朝鮮」という呼称を積極的に使わず、「なんて呼んだらいいんでしょう」と訊いてくれたのだった。あのあと色々と考えたり調べたりしてくれたんだろうか。少し感動した。
思いのほか、私たちはたくさんの常套句や言い回しの影響を受けている。無意識に使っていた言葉を一旦保留にしてみると、視野が広がり、別の言葉が浮かんできて思考の幅も広がる。周りから多少面倒くさがられることがあったとしても、たびたび立ちどまって、自分が使っている言葉を見直す癖をつけたい。(理)








