モンテカルロ
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何かの書類やアンケートで趣味を書く欄があると、適当に「読書」「映画鑑賞」「登山」などと、そのときの気分で記入している(まあ、現実に記入するときは、一番画数の少ない「登山」と書くことが多い)。しかし最近ほとんどまともに本を読んでいないし、映画も今年映画館に足を運んだのは2回くらいである。登山も好きだが年に3回程度しか行かないので、趣味とは言えない。
ほとんど趣味がないわたしであるが、唯一、趣味だと言えるのが囲碁である。一時期はせっせと囲碁の本を買って勉強していて、「囲碁の本を買うのが趣味」だという状況だった。今はだいぶと落ち着いて、月に1度程度しか碁石を持たないが、それでも趣味だと思っている。それじゃあ、趣味の欄に「囲碁」と書けばいいじゃないかと言われそうだが、どのように使われるかわからないアンケートなどに本当のことを書きたくないという、在日朝鮮人の防衛本能が働くのである。
囲碁を覚えたのは30歳になってからである。アボジが囲碁が好きで、生活の周辺に囲碁があったが、幼い頃はまったく興味がなかった。逆に、日曜日の昼にアボジが囲碁番組を見て、2時間もテレビを占領するので、うんざりとしていた。アボジもすぼらな人間だったので、子どもに積極的に囲碁を教えようとはしなかった。アボジがイチローの父親みたいな人間で、幼い頃から囲碁のスパルタ教育をほどこしてくれていたら、いまごろトッププロになっていたかもしれない。そしたら、毎日の通勤や締切とは無縁の生活を送っていたことだろう。しかし、民族や在日同胞社会とも無縁の生活だったという可能性もある。
囲碁を覚えてから実家に帰ったとき、アボジに「囲碁、しよう」と言うと、とても喜んでくれた。アボジは強かったので(4段くらいだった)、覚えた頃はこちらがハンディをいくつももらってやるのだが、そのハンディがだんだん少なくなっていくのが、私もアボジもうれしかった。こんなことならもっと早く囲碁を覚えてアボジの相手をしてあげればよかった、と思ったものである。
アボジが高齢になり身体の具合を悪くして入退院を繰り返した後、久しぶりに対局すると、棋力(囲碁の実力)が4ランクくらい落ちていて、わたしにハンディがなくても勝てなくなっていた。非常に悲しかった。アボジも自分の脳の劣化という現実を、囲碁という客観的な物差しでつきつけられて、悲しそうな顔をしていた。アボジのその気持ちがわかりまたいっそう悲しくなった。その後、また入院しそのまま亡くなったので、囲碁をしたのはその日が最後だった。その日のことは時々思い出す。実力でアボジを負かしたかったなあと、ちょっとくやしい。
いつもより長々と書いているが、まだ本題に入っていない。
囲碁がすばらしいゲームだと思うところは、白黒の石を使って遊ぶのに白黒がはっきりしないというか、あいまいな部分が多いところである。答えが決まっておらず、感覚というか、大きな戦略というか、大局観が問われる。最終的には陣地の多い者が勝つのだが、むさぼって陣地をいっぱい取ろうとすると、必ず破綻する。「相手にも49与えるかわりにこちらは50もらう」という考え方が必要なのである。相手を尊重する精神が養われると言えば、大袈裟だろうか。
感覚的な部分が多いから、コンピュータが一番苦手とするゲームだと言われてきた。チェスはディープ・ブルーというコンピュータが何年も前に世界チャンピオンを破っているし、日本の将棋もボナンザというソフトが2年前に渡辺明竜王(トッププロ)と対戦しいい勝負をしている。対照的に囲碁のソフトはこれまでアマ初段の実力もなかったのである。「初段の実力」といううたい文句の市販の囲碁ソフトも実際に対戦してみるとせいぜい2級から1級程度であった。
しかし、最近(昨年あたり)、「モンテカルロ法」というこれまでの囲碁ソフトとは違う新しい考え方のプログラムが急速な進歩を遂げていると、囲碁とコンピュータの両方のオタクの間で話題になっている。モンテカルロ法については詳しく書かないが(実はよくわかっていないので書けない)、その実力はアマの2段から3段くらいあるというのである。実際に対局していないので何とも言えないが、ネット上でのいろんな情報を総合すると、初段くらいの実力はありそうである。
このままプログラムが進歩を続けると、もうすぐに、わたしよりもコンピュータが強くなってしまうということになる。いつかは囲碁のトッププロよりも強いソフトが開発されるのであろうか。囲碁というゲームはそうなってほしくないと、心のどこかで思っている。
将棋の場合、現在市販されているソフトとわたしが対戦したら、飛車、角、金を落としてもらっても勝てないだろう。コンピュータ相手に、そんなのけったくそ悪くてやってられない。囲碁もコンピュータがわたしの実力を追い抜いたら、ちょっと、囲碁との付き合い方が変ってくると思う。何か悲しい。(k)