神、大福もたらさず
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何を書こうか。
文章の神様が降りてこない。かれこれ1時間以上、この状態のまま進んでいない。いよいよブログに書く自分のネタが無くなって来たのか。
とはいえちょいちょい、神が降りてこないときはある。そういうとき、いつもなら他の編集部員に何か単語を言ってもらう。そこから連想して書く、ということが今日はできない。
なぜなら家にいるから。周りに誰もいないから。
さて、何を書こうか?
手持ち無沙汰な気持ちのまま、冷蔵庫を開けると雪見大福を発見。スイカバーがあればいいなと思っていたけど、雪見大福だった。
ふたを開けると、はたして神様のほっぺのような真っ白な雪見大福が二つ、そこにはあった。冷えているせいか張りもよく、突っついた人差し指が痛い。
「雪見大福」
と神様にお願い事をするように、小さな声をだしてみる。それから、「雪見大福」と声をだしたのは一体何年ぶりだろうと思う。
ともあれ神様のほっぺをひとつ口に入れると、懐かしい味がした。久しぶりに食べたわけではないのだが、なぜか懐かしい。それは記憶的な懐かしさよりも、連想される風景への憧憬に近い懐かしさだ。たとえばトウモロコシを食べると、田舎の細長い一本道や、田んぼや、麦藁帽子や、かかしを思い浮かべてしまうのだが、そういう種類の懐かしさ。
そういえば昔、雪見大福が大好きで、食べるときは必ず2、3回にわけて口にいれていた。大きくて、とてもじゃないけど一回では食べられなかったからだ。それが今は一回。
口の成長を実感しつつ、「いや、それは何も口が大きくなったからではない」と思う。昔は、大好きなものは少しずつ食べることに楽しみがあった。食的幸福を少しずつ、少しずつ数回に分散しながら、最後の一口で幸福度をマックスにさせる、そういう楽しみ。
でも大人になって、働きはじめて、給料をもらうようになって、欲しいものは値段にもよるけど買えるようになった今、たとえば雪見大福を100個買ったとしても、その値段は携帯電話の毎月の使用料金より安い。そういうなかで雪見大福はだんだんその輝きを失っていったのだ。ちょうど、歳をとっていろいろな現実を知るなか、神様の存在に対する信憑性が薄くなっていくことと同じように。
要は、幼い頃に感じていた雪見大福と、今感じている雪見大福には、その感じ方に絶望的な違いがあるというわけだ。
「金に目がくらむ」とはこういうことにも言えるなと思いつつ、キーボードについた神様の残骸のような白い粉をふぅ-っと払った。(蒼)