なんとなく、飽和というか
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ケータイ電話を新しい機種にして1ヵ月が過ぎた今日、朝鮮のワールドカップ出場が決まった。
前に使っていたケータイはどうしようもなく使いにくかった。それでも壊れる寸前まできばって使った。最後は通話ができなくなっていた。新しいケータイはいろいろな機能がついている。でもおそらくその半分も使いこなせないまま壊れるに違いない。そう予測するとき、もったいないと思ったりする。ケータイを使いこなしたい。使いこなさないともったいない。確かに余計だと思う機能もあるが「そんな機能はいらない」と言ったところで何も変わらない。あるんだから使えばいいと思っている。ただ、ケータイを持ち始めた高校2年生のとき、いろいろなものがそのケータイに届いた。それからちょうど10年が過ぎた今日の最新のケータイには、何かが届きにくくなった。そしてその何かはどんどん届きにくくなっていくのかもしれないと思っている。
そんなふうに考えているなか、今日、朝鮮のワールドカップ出場が決まった。44年ぶりである。44年前を生きていない筆者には当時の感動と比較できない。44年ぶりに出場できる感動と、出場が決まった感動はおそらく違う。それはちょうど、ボクシングで初めての防衛戦での勝利と2回目の防衛戦での勝利、その二つの感動のあいだに確実にある距離を考えてくれればわかる。悲しいかな、これから毎回朝鮮がW杯に出場すればその距離はどんどんひろがっていく。
朝鮮がW杯に出場するという情報を、朝の電車で最新のケータイで知った。
朝鮮が本選でも良い結果を出してこれから毎回出場してくれることを切に願っている。
ケータイがどんどん発展してくれることを切に願っている。(蒼)