ある日曜日、僕は夏目漱石の墓参りをした。
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ある日曜日、夏目漱石先生の墓参りでもしないかと友人に誘われ、僕とその友人の2人は東京メトロ副都心線に乗って「雑司ヶ谷駅」に向かった。
駅から徒歩10分ほどの場所に位置した雑司ヶ谷霊園に着くと、そのあまりの広さに圧倒された。とはいえ、休日の昼下がりなのに霊園にはまったく人がおらず、夏目先生の墓も、大きいくせに物静かで、なんだか廃れているようにさえ思えた。
「私は淋しい人間です」
墓から声が聞こえたような気もしたが、とにかくこんないい天気なのに誰も先生の墓参りをしていない。だからか先生はひどく淋しいそうだった。それでも凛とそびえる先生は、「でもことによれば、あなたも淋しい人間じゃないんですか」と言いたそうで、僕たち2人を突き放しているようでもあった。
「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人――これが先生であった」
初めて自分のお金で買った小説が夏目先生の「こころ」だったことを思い出す。なぜ「こころ」を買ったのかは覚えていない。たまたま手にとった本が「こころ」だっただけかもしれない。小学4年生のときのことだ。そんなに本好きな少年ではなかったし、それまで読んだ本といえば、図書館で借りた江戸川乱歩の「怪人二十面相」だとか、学校で先生から薦められたほとんど教材に近い本だけだった。
一緒にいた友人は、大学の卒論の題材が「こころ」だったので、だから墓参りに付き合わされるはめになったのだが、友人は再三「別に好きじゃない」と否定しつつも、夏目先生の経歴だとか「こころ」の内容をいちいち説明する。持参したデジカメで墓を撮り続ける。やっぱり特別な思い入れがあるのだろう。
そんなわけで結局、先生の墓の前で1時間ほど過ごすことになった。できれば他人の墓の前で長時間過ごしたくないものだが、あのときの1時間は何の気苦労もなく自然に流れたように思えた。日曜日のごくありふれた時間の一部と同じように、静かに流れていった。
嫌な事件ばかりが起こるこの頃。「こころ」の先生に比べると、単純な理由で「私は淋しい人間」だと思ってしまう人が増えているように思う。もちろんそのような傾向が自分にまったく無いとは言えないが、それでも「自分の懐に入ろうとするものを、手を広げて抱きしめ」てあげられる、そんなこころを持った26歳(3月末に誕生日)になりたいと思った、ある日曜日だった。(蒼)