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最終回 たたかいの歴史から何を学ぶか

本誌で2013年1月号から連載してきた「同胞権利ヒストリー」が今月号をもって終了する。連載最終回となる今回は、これまでの取材・執筆を通じて感じたことや、残された課題などについて思うことを書いてみたい。   権利獲得運動のダイナミズム 1945年の朝鮮解放から現在まで、在日朝鮮人がさまざまな権利を獲得してきた歴史を当事者の証言を交えて振り返る―。そんな連載企画が編集部内で持ち上がったのは2012年の秋ごろのこと。誰もが知る有名な出来事から、あまり知られていないが重要な問題にいたるまでさまざまなトピックを取り上げ、権利闘争の現場にいた人々の証言も盛り込みながら同胞たちの権利獲得運動を活写したいという構想だった。 15回の連載で外国人登録法、在留資格問題、高齢者・障害者無年金問題、就職差別、戦後補償など幅広い分野のイシューを取り上げたが、最も多かったのが民族教育の諸権利に関する問題だった。48年の4・24教育闘争に始まって、翌年の学校閉鎖令、60年代の朝鮮大学校認可闘争、80年代から2000年代にかけてのJR通学定期券割引率差別是正、大学受験資格、高体連加盟問題、地方自治体の補助金獲得にいたるまで、その数は全体の過半数の8回におよぶ。

届かない被害者の訴え~vol.16 在日朝鮮人の戦後補償問題

植民地支配や戦争の被害を受けた人々に対する戦後補償において、日本は過去の反省と清算から目を背け、被害者の訴えを退け続けている。1990年代以降、被害者による訴訟が日本政府や企業を相手に相次いで起こされるが、そのほとんどが棄却された。   大企業の差別明らかに 日本の戦後補償の問題は、▼戦時中、アジア各地から集められた日本軍「慰安婦」、▼強制連行・強制労働、▼BC級戦犯、▼戦争に駆り出され傷ついた傷痍軍人・軍属など多岐にわたる。その多くが、自国民優遇政策や2国間協定で解決済みといった不誠実な姿勢によって不十分な形で幕引きを図られたり、未解決のまま残されている。背景には、第2次大戦後、米国の東アジア戦略の下で日本の植民地支配責任、戦争責任があいまいにされ、日本もそれを利用して責任から逃れてきたという経緯がある。朝鮮半島に関しては、60年代の韓日国交正常化の過程で日本側の謝罪と補償が不問に付された。朝鮮民主主義人民共和国とは国交がないため、賠償問題は未処理のままだ。

「常識」を覆すたたかい~vol.15 就職・職業差別の是正

戦後、在日朝鮮人に対する就職差別は「常識」だった。公的機関による外国人排除の論理は民間における国籍・民族による就職差別を助長し、在日朝鮮人の職業選択の自由は侵害され続けた。その傾向は現在においても根本的に是正されていない。   大企業の差別明らかに   就職差別に一つの風穴を開けたのは1970年代の「日立就職差別裁判闘争」だった。 70年8月、愛知県在住の在日韓国人2世・朴鐘碩さん(当時18歳)は日立ソフトウェア戸塚工場の採用試験を受け合格したが、戸籍謄本の提出を求めた会社側に対して在日朝鮮人であると告げたところ、一方的に採用取り消しを通告された。朴さんは同年12月8日、解雇の無効と慰謝料などを求めて横浜地裁に提訴する。  

当たり前に本名を名乗れる社会を~vol.14 民族名をめぐるたたかい

在日朝鮮人の多くは本名である民族名のほかに「日本名(通称名)」という2つの名前を持って生活してきた。朝鮮人差別が根強く残る中で、ある者は民族名を名乗ることに不利益を強いる現実に抗い、またある者は奪われた名前を取り戻すたたかいに立ち上がった。   「通名」を強いる社会 在日朝鮮人が「通名」を使用するようになった歴史的背景に、日本の植民地支配下において行われた、朝鮮人の姓名を日本式の氏名へ変えさせるという「創氏改名」政策がある。 1945年の解放後も日本に留まった同胞の多くは引き続き日本式の「通名」を使用した。差別・偏見が根強い社会で民族名を使うことによる不利益を避けるため、日常生活における「通名」使用が定着していった。

「外国人お断り」は差別~vol.13 在日朝鮮人の入居差別問題

在日外国人の多くを朝鮮人が占めていた時代、民間の賃貸アパートに「朝鮮人お断り」などの露骨な張り紙がしてあることは少なくなかった。国籍を理由にした差別に声を上げることができない状況は長く続いた。

切り捨てられた障害者と高齢者~vol.11 -在日外国人の無年金問題

在日朝鮮人の障害者、高齢者の一部の人々は年金を受け取れず、苦しい生活を送っている。国籍に関係なく等しく支給されるはずの年金制度の不備によって生まれた無年金問題。日本政府による制度的差別の一つであるこの問題はいまだ解決を見ていない。   国籍条項の撤廃と新たな差別 日本の年金制度は、勤労者を対象とする被用者年金と、それ以外を対象とする住民年金の2つに分類される。第2次大戦前は被用者年金しかなく、これには「国籍条項」があったので、外国人は対象外とされていた。戦後、連合軍占領下で国籍差別の禁止が定められたため、被用者年金の国籍条項は削除された。 59年、住民年金としての「国民年金法」が制定されるが、同法は被保険者資格を「日本国民」と規定した。ふたたび「国籍条項」が復活したのだ。当時、在日外国人の大多数を占めていた在日朝鮮人はこの条項によって長い間、社会保障制度から排除されてきた。  

「私たちの学校を取り上げないで」~vol.9 -枝川朝鮮学校土地問題裁判

2003年12月、東京都が江東区枝川の東京朝鮮第2初級学校(以下、東京第2初級)の 校地の一部返還と4億円の損害金支払いを求めて提訴した裁判(以下、枝川裁判)は 07年3月、和解という形で決着した。 枝川裁判は在日朝鮮人の民族教育権をめぐって争われた初のケースとして 大きな注目を集めた。   歴史的経緯無視した 都側の提訴   本裁判には枝川という地をめぐる歴史的な経緯が深く関係している。 枝川1丁目地区は戦前、朝鮮人が住んでいた江東区塩崎などが「幻の東京五輪」の会場予定地に指定されたため、都が41年に埋め立てを終えたばかりの土地に粗末なバラック住宅を建てて、1000人以上の朝鮮人を強制移住させることによって形成された。都が戦後、同地区の管理を一切放棄したことで、同胞たちは劣悪な住環境の改善に自力で取り組まざるをえなかった。

70年代から獲得へ粘り強い取組み~vol.9 -地方自治体による朝鮮学校への補助金

朝鮮学校は各種学校であることから学校運営に対する公的助成が少額で、 保護者らは少なくない経済的負担を強いられてきた。 地方自治体からの公的助成を求める運動は1970年代から始まり、 各地でさまざまな形の補助金を勝ち取ってきた。   行政へ働きかけ、 信頼関係も構築   朝鮮学校への助成制度の適用は保護者の負担軽減のみならず、学校の健全な運営確保のためにも不可欠だった。「教育を受ける権利の保障」という視点とともに、朝鮮学校設立の歴史的経緯からしても一刻も早い改善が求められていた。  地方自治体における朝鮮学校への公的助成は1960年代まで皆無だったが、70年に東京都が「私立学校教育研究費補助金」の給付に踏み切ったのを皮切りに、74年には大阪府が「私立専修各種学校設備補助金」を、77年には神奈川県と愛知県が「私立学校経常費補助金」の支給を始めた(『資料集 在日朝鮮人の民族教育の権利』在日本朝鮮人教育会編)。97年の愛媛県をもって、当時、朝鮮学校があった29の都道府県すべてが補助金を支給するようになった。

スポーツでも同じ舞台に~vol.8 -朝鮮高級学校の高体連加盟

朝鮮高級学校(朝高)は長い間、日本の高校スポーツの総本山・全国高等学校体育連盟(高体連)が主催するすべての公式試合に出場できなかった。 高体連が加盟資格を学校教育法第1条で定める「学校」(1条校)に限定し、各競技団体もこれにならっていたためだ。朝鮮学校の生徒はなぜ同じ舞台に立てないのか―。固く閉ざされた扉を開こうとする動きは大阪から始まった。   理不尽に奪われた希望 朝高の高体連加盟問題は1990年5月、大阪朝鮮高級学校の女子バレーボール部をめぐって起きた一つの出来事が発端となりクローズアップされる。 同年3月、同部が大阪高体連への新規加盟を認められ、府の春季大会へエントリーする。資格のない朝高に出場を認めてしまった高体連側の「ミス」だったのだが、これが後に大きな問題を引き起こす。同大会の1次予選を突破し、2次予選出場を決めた大阪朝高に大阪高体連から連絡が入った。「規約上、朝鮮高級学校は高体連へ加盟できないことに気づいた。大会には出場できない」。いったん参加を認められ、予選を勝ち進んでいたのに、途中で締め出されたのだ。

浮き彫りになった朝鮮学校外し~vol.7 -朝高卒業生の大学受験資格問題

大学に入学(受験)できるのは高校卒業生と帰国子女、大学入学資格検定(大検、現在の高校卒業認定資格)の合格者などと定めた学校教育法を盾に文部省(後に文科省)は朝鮮学校をはじめ一条校でない外国人学校の卒業生には大学の受験資格がないという立場を長年に渡ってとってきた。国立大学もこの見解に従って一律に朝高卒業生の受験を拒絶していた。差別是正のたたかいは1990年代半ば、京都から火がついた。   2重、3重の負担 朝高生は大検の受験までも制限されていた。大検を受けるには中学卒業の条件が必要だが、一貫して朝鮮学校に通ってきた生徒には中卒資格も与えられないので、大検すら受けることができない。朝高生への受験資格を認めない大学を受ける道は、朝高に通いながら日本の定時制高校か通信制高校に在籍して大検に合格するか、上記の高校を卒業して「高卒」の資格を得るかの2つ。いずれも回り道で、生徒への負担はたいへん大きかった。 国立大とは対照的に、一部の公立および私立大学は早い時期から独自の判断で朝高生の受験を認めてきた。

広範な支持世論が追い風に~vol.6-朝鮮大学校の法的認可獲得

1955年5月25日に結成された在日本朝鮮人総聯合会(総聯)は民族教育分野において、朝鮮学校の各種学校認可の取得を主要な課題として取り組んでいった。とりわけ象徴的だったのが56年に創立された朝鮮大学校の認可をめぐる運動だった。   美濃部知事の登場が転機 各種学校としての認可獲得を目指したのは、日本政府が朝鮮学校に対して正式な認可を与えない姿勢であったため、私立学校法によって都道府県知事の所轄事項である各種学校認可に的を絞ったためだ。日本各地の朝鮮学校の中で最も早く認可を取得したのは京都朝鮮中高級学校で、53年のこと。 東京朝鮮中高級学校の敷地の一角に創立された朝鮮大学校は3年後の59年に現在の東京都小平市に移転。同年から各種学校としての認可を求める申請書を毎年のように都に提出してきたが、都当局はそのつど申請そのものの受付を拒否した。しかし日本社会の広範な認可要請運動もあって、それ以上拒むことができなくなっていた都は66年4月22日に初めて申請を受理。申請書の提出を始めて7年目にしての受理だった。

混乱の中でも灯火は消えず~vol.5-49年「学校閉鎖令」と民族教育存続の取り組み

4.24教育闘争の翌年の1949年9月8日、連合軍司令部(GHQ)と日本政府は「団体等規正令」を適用して朝鮮学校の運営母体であった朝聯(在日本朝鮮人聯盟)を強制解散させ、10月19日の「学校閉鎖令」によって日本各地の朝鮮学校を閉鎖に追い込んだ。瀕死の状態に陥った在日朝鮮人の民族教育はしかし、その後のさまざまな取り組みによって命脈が保たれていくことになる。   写真の中の少女は語る 当局による暴力的な学校閉鎖の場面を象徴する1枚の写真がある(左ページ上)。幼い子どもたちが警官の手で教室の窓から外に放り出される姿。その表情は恐怖にゆがんでいる。場所は愛知県の守山朝鮮人初等学院、写っている2人の少女が金孝順さん(74、当時初級部5年生)と裵永愛さん(72、初級部2年生)だ。 10月19日、警官隊がトラックなどに乗り学校近くの矢田川の堤防から橋を渡って学校へ押し寄せてきた。金さんの母親、そして学校へ向かう途中だった裵さんもその姿を目撃している。周囲の道を遮断した警官隊は棍棒を振り回しながら授業中の教室に乱入。金さんは「あっという間に私たちはみんな外に追い出された。叩き割られたガラスの破片で怪我した人もいた。その後、警察は窓に板を打ち付けて校舎に立ち入れないようにした」と当時を振り返る。

高校無償化本2

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