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権利

権利に関する 97 個の記事をリストしました。

切り捨てられた障害者と高齢者~vol.11 -在日外国人の無年金問題

在日朝鮮人の障害者、高齢者の一部の人々は年金を受け取れず、苦しい生活を送っている。国籍に関係なく等しく支給されるはずの年金制度の不備によって生まれた無年金問題。日本政府による制度的差別の一つであるこの問題はいまだ解決を見ていない。   国籍条項の撤廃と新たな差別 日本の年金制度は、勤労者を対象とする被用者年金と、それ以外を対象とする住民年金の2つに分類される。第2次大戦前は被用者年金しかなく、これには「国籍条項」があったので、外国人は対象外とされていた。戦後、連合軍占領下で国籍差別の禁止が定められたため、被用者年金の国籍条項は削除された。 59年、住民年金としての「国民年金法」が制定されるが、同法は被保険者資格を「日本国民」と規定した。ふたたび「国籍条項」が復活したのだ。当時、在日外国人の大多数を占めていた在日朝鮮人はこの条項によって長い間、社会保障制度から排除されてきた。  

「私たちの学校を取り上げないで」~vol.9 -枝川朝鮮学校土地問題裁判

2003年12月、東京都が江東区枝川の東京朝鮮第2初級学校(以下、東京第2初級)の 校地の一部返還と4億円の損害金支払いを求めて提訴した裁判(以下、枝川裁判)は 07年3月、和解という形で決着した。 枝川裁判は在日朝鮮人の民族教育権をめぐって争われた初のケースとして 大きな注目を集めた。   歴史的経緯無視した 都側の提訴   本裁判には枝川という地をめぐる歴史的な経緯が深く関係している。 枝川1丁目地区は戦前、朝鮮人が住んでいた江東区塩崎などが「幻の東京五輪」の会場予定地に指定されたため、都が41年に埋め立てを終えたばかりの土地に粗末なバラック住宅を建てて、1000人以上の朝鮮人を強制移住させることによって形成された。都が戦後、同地区の管理を一切放棄したことで、同胞たちは劣悪な住環境の改善に自力で取り組まざるをえなかった。

70年代から獲得へ粘り強い取組み~vol.9 -地方自治体による朝鮮学校への補助金

朝鮮学校は各種学校であることから学校運営に対する公的助成が少額で、 保護者らは少なくない経済的負担を強いられてきた。 地方自治体からの公的助成を求める運動は1970年代から始まり、 各地でさまざまな形の補助金を勝ち取ってきた。   行政へ働きかけ、 信頼関係も構築   朝鮮学校への助成制度の適用は保護者の負担軽減のみならず、学校の健全な運営確保のためにも不可欠だった。「教育を受ける権利の保障」という視点とともに、朝鮮学校設立の歴史的経緯からしても一刻も早い改善が求められていた。  地方自治体における朝鮮学校への公的助成は1960年代まで皆無だったが、70年に東京都が「私立学校教育研究費補助金」の給付に踏み切ったのを皮切りに、74年には大阪府が「私立専修各種学校設備補助金」を、77年には神奈川県と愛知県が「私立学校経常費補助金」の支給を始めた(『資料集 在日朝鮮人の民族教育の権利』在日本朝鮮人教育会編)。97年の愛媛県をもって、当時、朝鮮学校があった29の都道府県すべてが補助金を支給するようになった。

スポーツでも同じ舞台に~vol.8 -朝鮮高級学校の高体連加盟

朝鮮高級学校(朝高)は長い間、日本の高校スポーツの総本山・全国高等学校体育連盟(高体連)が主催するすべての公式試合に出場できなかった。 高体連が加盟資格を学校教育法第1条で定める「学校」(1条校)に限定し、各競技団体もこれにならっていたためだ。朝鮮学校の生徒はなぜ同じ舞台に立てないのか―。固く閉ざされた扉を開こうとする動きは大阪から始まった。   理不尽に奪われた希望 朝高の高体連加盟問題は1990年5月、大阪朝鮮高級学校の女子バレーボール部をめぐって起きた一つの出来事が発端となりクローズアップされる。 同年3月、同部が大阪高体連への新規加盟を認められ、府の春季大会へエントリーする。資格のない朝高に出場を認めてしまった高体連側の「ミス」だったのだが、これが後に大きな問題を引き起こす。同大会の1次予選を突破し、2次予選出場を決めた大阪朝高に大阪高体連から連絡が入った。「規約上、朝鮮高級学校は高体連へ加盟できないことに気づいた。大会には出場できない」。いったん参加を認められ、予選を勝ち進んでいたのに、途中で締め出されたのだ。

浮き彫りになった朝鮮学校外し~vol.7 -朝高卒業生の大学受験資格問題

大学に入学(受験)できるのは高校卒業生と帰国子女、大学入学資格検定(大検、現在の高校卒業認定資格)の合格者などと定めた学校教育法を盾に文部省(後に文科省)は朝鮮学校をはじめ一条校でない外国人学校の卒業生には大学の受験資格がないという立場を長年に渡ってとってきた。国立大学もこの見解に従って一律に朝高卒業生の受験を拒絶していた。差別是正のたたかいは1990年代半ば、京都から火がついた。   2重、3重の負担 朝高生は大検の受験までも制限されていた。大検を受けるには中学卒業の条件が必要だが、一貫して朝鮮学校に通ってきた生徒には中卒資格も与えられないので、大検すら受けることができない。朝高生への受験資格を認めない大学を受ける道は、朝高に通いながら日本の定時制高校か通信制高校に在籍して大検に合格するか、上記の高校を卒業して「高卒」の資格を得るかの2つ。いずれも回り道で、生徒への負担はたいへん大きかった。 国立大とは対照的に、一部の公立および私立大学は早い時期から独自の判断で朝高生の受験を認めてきた。

広範な支持世論が追い風に~vol.6-朝鮮大学校の法的認可獲得

1955年5月25日に結成された在日本朝鮮人総聯合会(総聯)は民族教育分野において、朝鮮学校の各種学校認可の取得を主要な課題として取り組んでいった。とりわけ象徴的だったのが56年に創立された朝鮮大学校の認可をめぐる運動だった。   美濃部知事の登場が転機 各種学校としての認可獲得を目指したのは、日本政府が朝鮮学校に対して正式な認可を与えない姿勢であったため、私立学校法によって都道府県知事の所轄事項である各種学校認可に的を絞ったためだ。日本各地の朝鮮学校の中で最も早く認可を取得したのは京都朝鮮中高級学校で、53年のこと。 東京朝鮮中高級学校の敷地の一角に創立された朝鮮大学校は3年後の59年に現在の東京都小平市に移転。同年から各種学校としての認可を求める申請書を毎年のように都に提出してきたが、都当局はそのつど申請そのものの受付を拒否した。しかし日本社会の広範な認可要請運動もあって、それ以上拒むことができなくなっていた都は66年4月22日に初めて申請を受理。申請書の提出を始めて7年目にしての受理だった。

朝鮮学校への差別を許さない!

朝鮮学校への「高校無償化」適用と各自治体の補助金支給を求める大規模な集会、パレードが3月に東京(31日)、大阪(24日)、愛知(24日)で行われた。在日同胞と日本市民が共に朝鮮学校への差別に反対するために声をあげ行動を起こし、最後までたたかい続けることを決意した。

混乱の中でも灯火は消えず~vol.5-49年「学校閉鎖令」と民族教育存続の取り組み

4.24教育闘争の翌年の1949年9月8日、連合軍司令部(GHQ)と日本政府は「団体等規正令」を適用して朝鮮学校の運営母体であった朝聯(在日本朝鮮人聯盟)を強制解散させ、10月19日の「学校閉鎖令」によって日本各地の朝鮮学校を閉鎖に追い込んだ。瀕死の状態に陥った在日朝鮮人の民族教育はしかし、その後のさまざまな取り組みによって命脈が保たれていくことになる。   写真の中の少女は語る 当局による暴力的な学校閉鎖の場面を象徴する1枚の写真がある(左ページ上)。幼い子どもたちが警官の手で教室の窓から外に放り出される姿。その表情は恐怖にゆがんでいる。場所は愛知県の守山朝鮮人初等学院、写っている2人の少女が金孝順さん(74、当時初級部5年生)と裵永愛さん(72、初級部2年生)だ。 10月19日、警官隊がトラックなどに乗り学校近くの矢田川の堤防から橋を渡って学校へ押し寄せてきた。金さんの母親、そして学校へ向かう途中だった裵さんもその姿を目撃している。周囲の道を遮断した警官隊は棍棒を振り回しながら授業中の教室に乱入。金さんは「あっという間に私たちはみんな外に追い出された。叩き割られたガラスの破片で怪我した人もいた。その後、警察は窓に板を打ち付けて校舎に立ち入れないようにした」と当時を振り返る。

特別企画:日本のヘイト・クライムを考える

ヘイト・クライム(憎悪犯罪)とは「人種、民族、宗教などに対する偏見・差別を動機とする犯罪」とされる。在特会(在日特権を許さない市民の会)に代表される日本の一部の団体が、朝鮮学校を襲撃し「嫌韓デモ」を繰り返す。「朝鮮人を殺せ!」と殺意をむき出しにする。それはまさにヘイト・クライムそのものだ。問題なのは、一部の人たちのそのような行動よりも、それを容認しそれを生み出した日本社会のあり方である。「高校無償化」から朝鮮学校だけが排除され続けている現状と根っこを同じくするものだ。
日本のヘイト・クライムを考える。

「学校を守れ」、流血のたたかい~vol.4 4.24教育闘争

1948年の4.24教育闘争から今年で65年。兵庫、大阪を中心に、占領米軍と日本政府による朝鮮学校閉鎖に反対し血を流してたたかった同胞たちの経験は、戦後、現在まで脈々と続く民族教育権擁護運動の原点となった。   閉鎖令撤回と「非常事態宣言」 1945年8月15日の祖国解放後、在日同胞たちは日本帝国主義の植民地支配下で奪われた民族の言葉を取り戻そうと、日本各地で手作りの「国語講習所」を次々と開いた。同年10月に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝聯)は民族教育事業に力を注ぎ、「講習所」を学校へと発展させる。48年4月1日時点で、朝鮮学校の数は566校にのぼった。 しかし、日本を占領していた連合軍総司令部(GHQ)は朝鮮学校に対する弾圧政策に舵を切る。文部省は48年1月24日、在日朝鮮人の子どもたちの日本学校就学、朝鮮学校の学校教育法による認可などを求めた通達を各都道府県知事宛に送付、従わない場合は学校を閉鎖するよう命じた。その後、3月31日の山口県を皮切りに、4月まで岡山、兵庫、大阪、東京の各都府県で学校閉鎖令が下された。

「高校無償化」裁判闘争へ

「高校無償化」制度の対象から朝鮮高級学校を除外しようとする日本政府の違法性を問う裁判が愛知と大阪で始まる。1月24日、愛知では愛知朝鮮中高級学校高級部の生徒たちが慰謝料を求める国家賠償請求訴訟を、大阪では学校法人大阪朝鮮学園が「無償化」適用指定を求める行政訴訟をそれぞれ起こした。東京でも国賠訴訟が近く提起される予定だ。同制度が朝高排除の下で施行され約3年。「無償化」適用を求めるたたかいは舞台を法廷に移し、新たなステージへ入った。

「オモニパワー」がリードした運動~vol.3 JR通学定期券割引率差別の是正

朝鮮学校児童・生徒の通学定期券が日本学校より高い―。旧国鉄時代から続いていたJRの通学定期券割引率の格差は1994年、26年ぶりに是正された。差別是正を求める運動は国鉄が分割・民営化されJRが誕生した1987年、千葉県から始まった。担ったのは朝鮮学校に子を通わせる母親(オモニ)たちだった。   第一歩は千葉から   「同じ学生なのに、なぜ朝鮮学校に通う子どもたちの定期券が高いの?」 運動の発端は、あるオモニが発した疑問だった。 JRの学割運賃制度が設けられたのは国鉄時代の68年にさかのぼる。それ以前は学校による運賃の区別はなかった。「家計負担の軽減」を目的として導入された割引制度は誰にも同様に適用されてしかるべきだったが、「学校教育法」に基づいて運賃が設定された結果、学校間で格差が生じた。通学定期運賃は大学生、専門学校生を含む大人を100とした場合、高校生はその10%、中学生は20%、小学生は65%の割引。しかし当局は朝鮮学校が「学校教育法第1条で定める学校(1条校)ではない」との理由から、12歳以上を大人扱いで割引ゼロ、それ未満は50%引きとした。千葉朝鮮初中級学校に通う子どもの場合、船橋駅から学校がある新検見川駅まで初級部で1ヵ月600円、中級部では1200円の格差が生じた。遠距離になるほどその差は大きい。この運賃体系は民営化後にも引き継がれた。  

高校無償化本2

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